新本格ミステリ30周年インタビュー新本格ミステリ30周年インタビュー

『どんどん橋、落ちた』のような〝犯人当て〟が綾辻さんの原点、と言われたりもしますが、京大ミステリ研にはそういう〝犯人当て〟の伝統があるんですよね。新本格30周年のこのタイミングで『どんどん橋』の新装改訂版が出たというのも、ある種の巡り合わせだと思います。

綾辻京大ミス研の第一世代は、小野不由美も含めてみんな、あの時期の〝犯人当て〟の洗礼を受けています。その後、現在にいたるまで連綿と続いている、京大ミス研独自の風土ですね。

デビューして、作家として長くやっていけそうだと思ったのはいつですか?

綾辻’91年に『時計館の殺人』を発表したころ、かな。その前の『霧越邸殺人事件』は、30歳になるまでに書いてしまいたかった。20代の総決算のようなつもりで。’90年9月の刊行でした。これを満足のいく形で書き上げたらもう死んでもいい、というくらいの気持ちだったんですよ(笑)。

ははあ。

綾辻で、さてその次はどうしようか、と考えて書いたのが『時計館』だったんですね。『霧越邸』は学生時代に書いたプロトタイプの原稿があったんです。それを徹底的に練り直して膨らませていったんですが、『時計館』はまっさらの状態からだった。何もないところからあれを書けたのは、自信になりましたね。

30年のあいだで変わってきたこともあると思います。改訂版も出しておられるわけですから。『最後の記憶』以降の作品の改訂版は出さない、と話されていたことがありました。

綾辻『暗黒館の殺人』の執筆でさんざん苦労した結果、それなりのスキルアップがあったと思うんです。やっと自分なりの文章が書けるようになったかなと。並行して書いた『最後の記憶』の文章もなかなか良い感じだし、この辺で自分の文体ができてきたなという実感があって。だからまあ、改訂の必要もないだろうと思えるわけです。

意識して文体を変えたのですか、それとも自然に変わっていったのでしょうか?

綾辻変えたつもりはないんです。多分に技術的な問題だと思います。どっぷりと一人称で書いたのが良かったのかもしれない。『暗黒館』と『最後の記憶』を、あの時期に同時進行で。特に『暗黒館』では、重厚長大でなおかつあのように特殊な物語を書ききるため、一生懸命に文章や書き方を工夫しました。それまでの作品も、文章にはかなり気を遣って書いていたつもりなんですが、『暗黒館』とのあいだには相当な段差があると思います。

ある時期まではやはり、「新本格」を背負わされているというプレッシャーがありましたか?

綾辻ああ、はい。そういう時期もありましたね。ちょっとしんどかった気もします。

新本格ミステリの「新」はいつ取れたと思いますか?

綾辻メフィスト賞が始まったあたりかな。その前に京極夏彦さんが出て、第1回メフィスト賞で森博嗣さんが出て、その辺でもう「新」は取れたのでは。京極さん、森さんの登場で読者の幅もぐっと広がりましたからね。もう「新本格」でもないだろう、という気はしていました。その後は全部ひっくるめて「現代本格」でいいだろうと。なのに、いまだに「新本格ミステリ界の巨匠」なんて書かれることがあるんですよ(笑)。ぜんぜん巨匠でもないので、そのたびに修正をお願いしています。今年の30周年については、「新本格ムーヴメントが起こってから30年」という意味だから、大いに「新本格」を使えばいいと思うんですけどね。

本格ミステリ作家クラブの設立宣言に「1987年の綾辻行人のデビュー以降、未曾有のジャンル的繁栄を……」とあります。歴史として語られた時点で「新」ではなくなったと、僕は思っています。作家生活を振り返ると、いちばん苦しかったのは『暗黒館』のころですか?

綾辻そうですね。苦労しましたから。連載期間は4年ほどでしたが、書きはじめたのはもっとずっと前で。その間にゲームの仕事もあったし……。

『ナイトメア・プロジェクト〈YAKATA〉』ですね。

綾辻そう。でも、いま振り返ると、あの仕事も無駄じゃなかったと思えるんです。あれで、キャラクターを立てることを少し学んだ気もするし。『暗黒館』の登場人物のキャラが立っているのはそのおかげかもしれないし、それがさらに『Another』にもつながっていったのかもしれない。