特別書下ろし
あなたは元寇の実態を
知っていますか
日本が初めて外国に侵略されたのが、13世紀の蒙古襲来だった事実は、知らない人はいません。
二度にわたる来襲が不首尾に終わり、蒙古の統治下にはいらなかったのは、神風が吹いたおかげだと、まだ信じている人も多いでしょう。
なるほど、2回目の襲来である弘安の役(1281)のときに、蒙古の軍船の大半を沈没させたのは台風でした。しかしその前に、対馬や壱岐、鷹島、平戸島の住民は、ほとんど皆殺しされ、若い女性は手に穴をあけられて綱を通され、奴隷として連行されたのです。
その7年前の文永の役でも、前述の4つの島では、大虐殺が行われました。時期が10月であり、風向きと潮目の変化を読んだ蒙古と高麗の軍船900隻は、博多の百道原から今津にかけてわずかに上陸したのみで、退散したのです。
こうした他国の侵略を、その14年前から予言していたのが、日蓮です。その著『立正安国論』によって、国難の到来を鎌倉幕府の要人たちに警告しました。聞く耳を持たなかった幕府も、度重なる蒙古の使者の来日と、上述の文永の役によって、尻に火がつきます。
博多と大宰府を護るために、急ぎ造営させたのが、博多湾の海岸線20キロを塞ぐ石築地でした。この防塁は高さが3メートル近くあり、人も馬も越えられません。
弘安の役で攻め寄せた蒙古と高麗の東路軍と江南軍は、軍船は5000隻に達し、軍勢は10万人を超えました。もちろん船中には多くの馬とともに農夫もいて、家畜さえも積み込んでいたのです。鷹島周辺に橋頭堡を造り、機を見て一気に馬で大宰府を占領、そのあと京都と鎌倉に攻め上る算段だったと思われます。しか7月30日から翌日の閏7月1日にかけての暴風雨によって、伊万里湾口に集結していた軍船の大半は壊滅沈没したのです。
今、後世の私たちから眺めれば、鎌倉幕府の念頭にあったのは、博多と大宰府の防禦だったことが分かります。対馬と壱岐の無辜の民は全く眼中になく、いわば見捨てられた存在だったのです。為政者に遺棄された人々の悲劇に涙を禁じ得なかったのは、鎌倉幕府を見限った日蓮でした。