このシリーズには、一貫して「沼四郎」という人物が登場する。
個性的で、才能に溢れているが、偏屈で、排他的。フォロワーも多く生むが、最後は非業の死を遂げる(こうして書くと最後の要素以外は(あるいはそれも)メフィスト賞作家のイメージそのものだ)建築家である。シリーズの名称にもなっている「◯◯堂」も、基本的には沼四郎の建築である。したがって沼四郎は物語における一貫したキーマンだということになるが、彼のこの妙な名前、実は由来がある。
僕の実家が、沼のつく町名の四丁目にあるのだ。
前作である「眼球堂の殺人」をお読みいただいた方ならば、僕が作中の登場人物につける名前が地名に由来することが多いことを、すでにご承知のことと思う。実際、全国各地にある地名には、小説の登場人物にしたいほど面白いものがある。
すなわち、難読だけれども、一度覚えてしまえば確実に心に刻み込まれる地名──例えば「夙川」「酒々井」「石神井」「総曲輪」「東雲」「匝瑳」「宍粟」等々、サ行からから思い出せるものを列挙するだけでもきりがないのだが、いつか、何かの作品で必ず使うつもりでいる。
話は戻して、沼四郎の名前もまた(別に難読ではないけれど)僕の出身地名から来ている。我ながらなかなかいいネーミングだと自画自賛するのだが、本当のところ、この名前は元々、僕のペンネームになりかけたものだった。
僕の名前は、周木律。もちろんペンネームだが、この名前に決めるまでにはかなり苦労した。メフィスト賞を受賞したという連絡をいただいてから、実際に「この名前で」受賞したと発表するまでの数か月。小説の改稿作業等を優先していたため、かなりぎりぎりまでペンネームのことは後回しにしていたのだけれど、タイムアップが迫り、さあ何にしますかと編集者に詰め寄られた僕は、かなり迷った挙句、いくつかの候補を案出した。そのうちのひとつが、沼四郎だったのである。
だから、もしかすると僕は、別の世界線では「沼四郎」として小説を書いていたかもしれないのだ(想像するに、それはそれで面白いことになっていたような気がする)。
ちなみに、このときの候補の中に「周木律」はなかった。「律」という名前はなんとなく好きだったので、ペンネームにしたいと考えてはいたものの、しっくりくる苗字が思いつかなかったからである。
かくして、ペンネームが決まらないまま、いよいよ時間切れ寸前、僕は編集者から「数時間内に決めてください」とメールで迫られた。
本当に悩んだのを、今も覚えている。いっそ本名のままにするかとも思ったが、いろいろ差し障りもある。やはりペンネームにしなければならないが、一生ものになるので、納得したものでなければ決めるわけにはいかない。
さあ、どうしよう。焦った僕は、とりあえず手元にあった読み物──これも今でも忘れないが、当時話題になっていたヒッグス粒子に関する本だった──を開いてみた。このとき、まずパッと目に飛び込んだのが、メンデレーエフの周期律表だった。僕ははたと膝を打った。周期律? これだ!
で、僕は周木律となり、今に至るというわけだ。
本作「双孔堂の殺人」の内容とはあまり関係のない、散文的な話ばかりして恐縮だが、ちょうど本作を執筆・改稿していたころのエピソードであり、思わず書かせていただいた次第である。
某国立大学建築学科卒業。『眼球堂の殺人~The Book~』(講談社ノベルス、のち講談社文庫)で第47回メフィスト賞を受賞しデビュー。同書に始まる堂″シリーズの他、著書に『アールダーの方舟』(新潮社)、『災厄』『暴走』(KADOKAWA)、『猫又お双と消えた令嬢』『猫又お双と教授の遺言』『猫又お双と一本足の館』(角川文庫)、『不死症』(実業之日本社文庫)などがある。
〈堂〉シリーズ既刊 『眼球堂の殺人 ~The Book~』『双孔堂の殺人 ~Double Torus~』『五覚堂の殺人 ~Burning Ship~』『伽藍堂の殺人 ~Banach-Tarski Paradox~』『教会堂の殺人 ~Game Theory~』(以下、続刊。いずれも講談社)
38歳。「只の人」という名前とは真逆の、
どこをどう切っても只者ではない人間だ。
「ぼさぼさの髪。あご一面の無精髭」 「べっこう縁の眼鏡の奥には色素の薄い大きな瞳」 「学生だった20歳の頃、当時知られていたある未解決問題を証明」 「今後の日本を背負う数学者だ、とまで言われていた」 「28歳の時、彼はなぜか、突如失踪」 「どこへ消えたのか、親しい友人も、家族でさえも、知らなかった」 「心を病み、死を選んでしまったのではないか?」
だが、幸いなことに、その心配は杞憂だった。
すぐに、十和田の噂が……
「ニュージーランドの学会で共同研究発表」 「モンゴルの学者の論文に共著者として彼の名があった」 「オーストリアの社会福祉施設に彼から寄付があった」
そんな噂が、世界中から聞こえてきたのである。
やがて現在、何をしているのかが明らかに……
「鞄一つで世界中を旅し、訪れた先で各地の数学者の家に
無理矢理押し掛けては、共同研究をしているらしい」
いつしか世界の数学者たちは、
十和田のことをこう呼ぶようになっていた。
「放浪の数学者」
そんな彼のもとへ、世界を代表する建築学者・
「小生の新居『眼球堂』をお訪ねいただきたい。日程は三日間。各界の才能にも多数おいでいただく。きっと貴殿も満足するだろう。」
宮司司とは……!?
宮司司は警察庁キャリアで階級は警視。
16歳年下の妹、百合子はT大学大学院在学で
十和田只人のファンである。
新キャラクターである彼が、ある目的のため、
Y市Y湖畔の奇妙な建築物「ダブル・トーラス」
1に十和田只人を訪ねて車を走らせるところから、
この小説は始まる。
俺──宮司司が、ひとり十年落ちの車で向かっているのは、
Y湖畔に建てられた「ダブル・トーラス」と呼ばれる建造物だ。
元々は美術館として設計されたその巨大で奇妙な館は、
現在ある男の私邸として使われているという。
男の名前は、降脇一郎。(本文より)
異形建築「ダブル・トーラス」
かつては廃墟であったこともあるという狂気の建築家が
各地に遺した怪建築のひとつ。
ダブル・トーラスとは、実に変わった建物である、らしい。らしい、というのは、ダブル・トーラスに関する情報に乏しいからだ。調べる時間があまりなかったというのもあるが、そもそも資料が極端に少なく、あるいは伝聞によるものでしか知ることができないため、その全容がよく解らないのだ。
とりあえず解っているのは、ダブル・トーラスが、元々はY湖周辺の開発計画に伴い「双孔堂」という名前の美術館として建てられたものであることと、ダブル・トーラスを設計したのが、沼四郎なる男──前出の『眼球堂の殺人事件』において驫木煬として登場し、その晩年には異形の建築を多数設計した狂気の建築家──であることくらいだった。
過去、過疎化が進むY湖周辺では、地域振興のための計画がいくつも立案されてきた。花火大会もそうなのだが、そんな計画のひとつにY湖畔を芸術の街にしようというものがあった。五年ほど前に鳴り物入りでスタートした計画だったが、最終的には資金不足により頓挫し、目玉であった双孔堂という建物だけが廃墟として残るという情けない結果に終わったのだという。(本文より)