拙著『五覚堂の殺人』は、個人的に、とても思い入れの深い作品である。
当時はデビューして三作目、小説家稼業にもそれなりに慣れてきて、少々冒険をしてみた一作であると同時に、その後も継続して小説を書いていけるかどうかの試金石となる、そんなプレッシャーもあった。それが三年後、こうして文庫化されたことは、作者として心から嬉しく感じるところである。
さて、文庫化に当たってはもちろん、改稿の手を加えているが、その作業中、改めてつくづく思うことがあった。
それは、フラクタルという現象の妙である。
本作は、フラクタルという数学的概念をひとつのテーマとしている。この概念は、一言で説明するのが難しい。よく使われる説明は「ある図形の部分が、全体と相似形になっている」というものである。本作にもその具体例がいくつか出てくるので、例示に関してはぜひ本作をお読みいただければと思う。だが個人的には、フラクタルとは、単に部分と全体が相似であるということとは、もう少し別の部分に、その本質があると考えている。それを、多少乱暴ではあるものの、語弊を恐れず、僕なりの言葉を使って説明するならば、フラクタルとはすなわち、「単純さと複雑さとを結びつけるもの」であると考える。
世界は複雑なものだ──と多くの人は言う。
この言葉に偽りはない。為替相場は毎日のように予測できない動きをするし、政治はまるで予期しない指導者を戴く。原因不明の不機嫌に振り回される恋人たちは後を絶たず、あったはずのお金がいつの間にか財布から消えている。どれもこれも、ほんの十秒後に何が起こるかさえ見通せない、複雑な世界である。
一方、やはり多くの人が、世界は意外と単純なものだ、とも考えている。
褒められれば嬉しいし、けなされれば腹が立つ。イケメンとお金持ちはもてて、信じる者は救われる。何より、アインシュタインが導いた世界の秘密は『E=mc2』というシンプルさなのだ。これを単純と言わずして、何と言おう。
つまり、複雑さと単純さ、両者が共存しているのが、この世界の姿なのだ。
一聴した限りでは、矛盾しているように思えるかもしれない。だが本当のところ、それでいいのだ。なぜなら、その両者を結びつけるもの、フラクタルが存在するからである。
単純なものが、複雑な過程から生まれることがある。ある種の金属は、複雑な条件の上に、人工的に作られたのかと思うほど美しい立方体の結晶を作る。一方、単純な規則から、信じられないほど複雑なものが生まれることもある。ライフゲームと呼ばれるシミュレーションでは、ごく単純なルールから驚くほど多様性に富んだパターンが発生するのだ。
いずれも、単純さ、あるいは複雑さのみを見ていたら理解できない現象である。しかし、その陰に二つの考え方を結びつけるものが潜んでいるとわかれば、これは理解できないのではなく、同じものを二つの側面から見ているにすぎないのだ、と気づけるのである。
その意味で、例えば「複雑な人」「単純な人」というのは、実は存在しない。
複雑さと単純さとはフラクタルによって結びつけられている。むしろ、あるのはただフラクタル的な要素のみなのだ。そのいかなる側面が見えたかによって、人の印象は複雑にも、単純にもなるものなのだ。
一側面だけを見て判断してはならない──経験則的に正しいと思われるこの考え方は、フラクタルによって補強されている。即断しがちな判断であるが、決してそうはならないよう、僕も日々自戒しているところである。
某国立大学建築学科卒業。『眼球堂の殺人~The Book~』(講談社ノベルス、のち講談社文庫)で第47回メフィスト賞を受賞しデビュー。同書に始まる堂″シリーズの他、著書に『アールダーの方舟』(新潮社)、『災厄』『暴走』(KADOKAWA)、『猫又お双と消えた令嬢』『猫又お双と教授の遺言』『猫又お双と一本足の館』(角川文庫)、『不死症』(実業之日本社文庫)などがある。
「堂」シリーズ既刊 『眼球堂の殺人 ~The Book~』『双孔堂の殺人 ~Double Torus~』『五覚堂の殺人 ~Burning Ship~』『伽藍堂の殺人 ~Banach-Tarski Paradox~』『教会堂の殺人 ~Game Theory~』(以下、続刊。いずれも講談社)
(シリーズ第1作『眼球堂の殺人』より本文引用)
38歳。「只の人」という名前とは真逆の、
どこをどう切っても只者ではない人間だ。
「ぼさぼさの髪。あご一面の無精髭」 「べっこう縁の眼鏡の奥には色素の薄い大きな瞳」 「学生だった20歳の頃、当時知られていたある未解決問題を証明」 「今後の日本を背負う数学者だ、とまで言われていた」 「28歳の時、彼はなぜか、突如失踪」 「どこへ消えたのか、親しい友人も、家族でさえも、知らなかった」 「心を病み、死を選んでしまったのではないか?」
だが、幸いなことに、その心配は杞憂だった。
すぐに、十和田の噂が……
「ニュージーランドの学会で共同研究発表」 「モンゴルの学者の論文に共著者として彼の名があった」 「オーストリアの社会福祉施設に彼から寄付があった」
そんな噂が、世界中から聞こえてきたのである。
やがて現在、何をしているのかが明らかに……
「鞄一つで世界中を旅し、訪れた先で各地の数学者の家に
無理矢理押し掛けては、共同研究をしているらしい」
いつしか世界の数学者たちは、
十和田のことをこう呼ぶようになっていた。
「放浪の数学者」
そんな彼のもとへ、世界を代表する建築学者・
「小生の新居『眼球堂』をお訪ねいただきたい。日程は三日間。各界の才能にも多数おいでいただく。きっと貴殿も満足するだろう。」
宮司司とは……!?
宮司司は警察庁キャリアで階級は警視。
16歳年下の妹、百合子はT大学大学院在学で
十和田只人のファンである。
新キャラクターである彼が、ある目的のため、
Y市Y湖畔の奇妙な建築物「ダブル・トーラス」
に十和田只人を訪ねて車を走らせるところから、
第2作『双孔堂の殺人』は始まる。
(以下、本文より)
最後に、百合子はちくりと言った。
「(中略)それより、そんなに私のことばかり気にしていると、
いつまで経っても結婚できないままになっちゃうよ。
……ねえ、聞いてる? お兄ちゃん」
俺──宮司司が、ひとり十年落ちの車で向かっているのは、
Y湖畔に建てられた「ダブル・トーラス」と呼ばれる建造物だ。
元々は美術館として設計されたその巨大で奇妙な館は、
現在ある男の私邸として使われているという。
男の名前は、降脇一郎。
善知鳥神について「眼球堂の殺人事件」で十和田はこのように語っている。
「善知鳥神を一言で表すならば、これぞまさに『天才数学者』だ」 「そう。それも、僕が十人束になって掛かっても敵わないくらいの、まさに『千年に一人の天才』だ」
シリーズ第3作『五覚堂の殺人』は西暦2000年4月、
ある場所での十和田只人と善知鳥神の再会から始まる──
(以下、本文より)
「君とこうして話をするのは、いつぶりだろうな」 そう言うと彼は、色素の薄い瞳でしかと眼前を見据える。 (中略) 「僕をなぜ、ここに呼んだ。善知鳥神くん」 その問いに、神はいたずらっぽい表情を返した。 「あなたはなぜ、ここに来たんですか。十和田只人さん」
そこは五覚堂、異形建築の天才、沼四郎による第三の館だった。
「そうか、ここが五覚堂。あの志田幾郎の別荘か」 志田幾郎。 彼が、人々からしばしば「五感の哲学者」と呼び讃たたえられる、 日本を代表する学者であることは、もちろん十和田も知っていた。
「まさか、こんな東北の片田舎に建っていたとは」 感慨深げな十和田に、神は続けた。 「そして、その設計者こそが……」 「沼四郎、だな」 「ええ。」