一
「わたしに勝ったと思うな、信平」
神宮路翔が血走った目を見開き、不気味に笑う。
「お前の大切な者を奪ってやる。思い知るがいい」
神宮路が雲切丸を振り上げ、松姫を斬った。
「松!」
信平は目覚めて顔を上げた。静寂に包まれ、日差しの中で輝く池があり、美しい庭が広がっている。
昨夜眠れなかったせいか、ついうたた寝をしてしまい、悪い夢を見たようだ。
信平は安心して息を吐き、月見台から下がった。
奥御殿に渡り、松姫の部屋に行くと、福千代を眠らせたところだった松姫が、信平に微笑んだ。
床から出て身なりを整えている松姫に、信平も微笑む。
「無理をしていないか」
「はい。今日は、気分がようございます」
「ふむ」
信平はそばに座り、福千代の小さな手を触った。
「今朝、城から沙汰があった。しばらく登城を免除され、御役目も免ぜられる」
松姫は信平に、悲しそうな眼差しを向けた。
「わたくしのために、ご出世を断られたのですか」
信平は首を横に振った。
「麿が、そうしたいのだ。これからは、いつもそばにいる」
松姫の手をつかみ、引き寄せた。
「疲れた顔をしている。昨夜も眠れなかったのであろう」
「福千代が夜泣きをしますので」
だと、信平は分かっている。松姫は、信平と同じような悪夢に悩まされ、怯えて眠れないのだ。
神宮路に連れ去られ、両国橋の上で殺されかけたことが昨日のように目の奥に映り、松姫を苦しめている。
「少し休め。麿がそばにいる」
「はい」
明るい昼間に、信平の腕に抱かれて安心したのか、松姫は程なく、寝息を立てはじめた。
信平は松姫をそのまま寝させてやり、愛する人と共にいられる幸せを噛みしめるのだった。
こうしているあいだも、江戸市中では、老中・稲葉美濃守の主導による、神宮路一党の探索がおこなわれている。
神宮路翔という巨頭を失い、核となる者もいない一党は、今や離散しているのだが、美濃守は残党狩りの手を緩めず、江戸のみでなく、関八州、京、大坂へと探索の手を広げ、神宮路に加担していた者と判明すれば、容赦なく処刑した。
それにより、主だった者はいなくなったのだが、一部の者たちがふたたび江戸市中に潜伏しているという噂が流れ、町奉行所は南北総がかりで、身元が確かでない者のあぶり出しをはじめた。
中には、下っ端でも剛の者がおり、役人を斬殺して逃げ、商家を襲って金品を奪うなどしたので、市中は一時、混乱の極みに達した。
そこで、剛の者を取り押さえるべく、信平は先日美濃守に召し出され、五千石の役料と共に、与力五十騎、同心八十名を束ねる市中改役を打診されたのだが、
「ご期待に沿えませぬ」
と、辞退した。
美濃守は、これはおぬしと、おぬしの大切な家族の命に関わることだ、と、厳しい態度を見せたが、信平は応じない。
あきらめない美濃守は、三日だけ考える猶予を与えようとしたが、信平は頑なに拒み、赤坂に帰ったのだ。
このことは、本丸に詰める者から信平の舅である紀州大納言頼宣に伝わり、重く受け止めた頼宣は、ただちに将軍家綱に拝謁を求め、美濃守殿は、功労者である信平を殺す気かと訴えた。
決定事項ならば、いかに頼宣が訴えても覆すことは叶わなかっただろう。
信平を案じていた家綱は、美濃守に取り下げるよう申しつけたのだが、美濃守はその場に平伏し、一人、厄介極まりない男がいることを告げた。
名を、神宮路明楽という若者は、神宮路翔の実の弟で、この者は名を変えて江戸に入り、二人の家来と共に身を潜めていた。
驚いた家綱と頼宣に、すでに、名うての剣客を五名殺され、もはや信平のほかに、神宮路明楽を倒せる者はいないと、美濃守は訴えたのだ。
だが頼宣は、神宮路明楽の名が世に聞こえていないことを不審に思い、問い詰めた。
すると美濃守は、明楽が神宮路翔の弟だという事実を隠し、一党の中でも下っ端の浪人として潜伏しているからだと告げた。
明楽の狙いはただ一つ、兄の仇である信平の命。
頼宣は焦った。松姫がふたたび狙われるのではないかと思ったのだ。
娘を案じる頼宣に、美濃守はこう言った。
「市中改役は、むしろ信平殿を守るためでございました。役を受け、配下の者たちと神宮路明楽を討つよう申したのですが、どうしても受けませぬ」
頼宣が怒った。
「婿殿は何を考えておるのだ」
「もはや神宮路には関わりたくないと申し、聞きませぬ。屋敷に現れれば即座に成敗すると申しますので、やむなく帰しました」
頼宣は言葉を失い、家綱は、信平を守るためにできるだけのことはいたせ、と、美濃守に命じた。
二
日陰がある縁側に座っている信平は、目を閉じて、静かに思いをめぐらせている。美濃守に言われるまでもなく、この時すでに、明楽のことを知っていたからだ。
何げない文に見せかけた果たし状が届けられたのは、登城をする朝のことだった。
御屋敷に忍び込み、お命をちょうだいせんと思えば、容易くでき申した。なれど、それがしは兄、神宮路翔のごとき卑怯なまねはいたしませぬ。
剣の道を志す者として、あなた様と剣を交え、兄の仇を打ちとうござる。
明後日の明け六つ。目黒川新橋を渡った先にある荒れ寺にてお待ち申し上げる。
一刻過ぎてもお姿なき時は、改めて、お命をもらい受けに御屋敷にまいる所存。
その折は、奥方とお子のお命もちょうだいつかまつる。
なお、決闘の場にはお一人でまいられるよう、申し上げる。
神宮路明楽