■獣のにおい
吉村龍一
二十九年前、二十一歳の誕生日のことは生涯忘れない。当時私は、北海道登別市幌別駐屯地に、三等陸曹として勤務していた。
三月末とはいえまだまだ北の大地は雪深い。私たちにとってスキーは必須訓練のひとつ、クロスカントリーでの雪中行軍が、冬期演習の中心となっていた。
誕生日の深夜、私はその夜間雪中行軍に参加していた。暖かい部屋、バースデーケーキで祝ってくれる彼女、しゃれたカクテル、そんなものはどこにもない。
静寂の中、ストックが軋んでいく。隊は総勢六十名ほどで、白服で偽装した仲間らの吐く息は凍て付き、バナナで釘が打てるほどの冷え込みだった。
タイムリミットの日の出までに麓の集結地に到着せねば、訓練は失敗となる。寝ている暇などあるわけがない。とにかく朝日が昇る前に山を降りる、その命令を守ることがすべてだ。頼れるのは自分の足だけ、体重を乗せたスキーを漕ぎ続けたが、二十キロを超える装備が体力を奪っていく。星空の下、白樺の森は切れ間なく続き、ときおりフクロウの啼き声が聞こえた。凍り付いた睫毛を払う余裕もなく、朦朧とする意識の中で前進を続けた。
「小休止ーッ」
号令が鳴り響いた。仲間らがすぐに荷を下ろし、大きく息を吐く。私はポーチからチョコレートを取り出し、口に放り込もうとした。そのときだった、鬱蒼とした森陰に誰かの声がとどろいた。
隊全体がざわめきたった。人だかりに鼻先を潜り込ませた私が見たものは、巨大な獣の死体だった。枝分かれした角、百キロはあろうと思われる肢体、初めて目にした動物は腹をえぐられて息絶えていた。
「エゾシカだ、山親爺(羆)にやられたんだ」隣の隊員が言った。ライトに照らされた草食獣の亡骸はまだ新しく、鮮血が雪にまぶされて固まっていた。そのときの情景は、いまだ頭にこびりついている。
本作は、このように北海道で見聞きした野生動物がモチーフとなっている連作小説集だ。私の自衛隊体験を、森林保護官の樋口孝也に重ね合わせた。広大な大地と木々の奥深さ、川に自然繁殖した虹鱒の色、飛翔するオオワシのたくましさ、二十一歳の私が目にした生物たちが、この物語を連れてきてくれたのだと思う。