もうひとつのあとがき

■昭和天皇の手紙を公表した人
吉田伸弥

 一風変わった字余りの短歌がある。

「シンガポール陥落」東宮さまと手をとりて こをどりしたる すっぱき思ひ

 これは元東宮傅育官で、昭和天皇の侍従も務めた村井長正さんが一九七七年、それより三十五年前に日本軍がシンガポールを占領した時のことを詠んだものである。

 その二ヵ月後、東京は空襲される。皇太子(東宮)明仁親王は毛布にくるまれて防空壕に避難した。それからは敗戦へと苦難の連続。一九四四年から沼津、日光、奥日光に疎開、焼け野が原と化した東京に帰ってきたのは四五年十一月七日だった。村井さんはその間ずっと東宮の身辺にいた。

 帰京の翌日、村井さんは木戸幸一内大臣を訪ね、鬱屈した思いをぶつけた。「おかみ(昭和天皇)は終戦の決断をなぜ、もっと早くしてくださらなかったのか」

 四八年十一月十二日、東京裁判で東条英機元首相ら戦犯に絞首刑を含む判決が下った日の夜、当直の侍従だった村井さんは昭和天皇の泣きはらした顔を見ている。

 昭和天皇と香淳皇后が疎開先の皇太子に送った手紙が新聞に載ったのは八六年四月十五日。共同通信の特ダネだった。しかしその手紙を誰が公表したかについては「元宮内官Aさん」としか書いていない。信書の秘密を侵したことへの批判や宮内庁当局の怒りが強かったためと考えられる。その「Aさん」が村井さんである。

 昭和天皇が亡くなり平成の世になった八九年十一月、私は村井さんに手紙公表の事情を聞いた。公表から三年以上たって手紙は各種出版物で盛んに引用されていたが、依然として出所の秘匿扱いは続いていた。

 村井さんは手紙を写した様子を詳しく話してくれた。文庫化にあたり、その時の録音テープを二十六年ぶりに聞いてみた。すると記録しておかなければいけない、と思うことがあった。「ここはまずいなと思っていくらかカットしたところもないとは言えない」というくだりである。実はもっと厳しい軍人批判があったのかもしれない。このことを村井さんの名前とともに今回書くことができてよかったと思っている。

 冒頭の短歌にある「すっぱき思ひ」とは、宮内庁の怒りをかっても昭和天皇の在世中にその心を国民と世界の人々に知ってもらいたいと考えた村井さんの心の奥底にあった思いだろう。

誕生、戦争経験、結婚、そして即位。
知られざる天皇陛下の素顔

吉田伸弥

1938年東京生まれ。早大卒業後、読売新聞社入社。前橋支局、宮内庁担当、社会部デスクなどを歴任。98年定年退職。93年『天皇への道』で吉田茂賞受賞

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