■国後島の主
吉村龍一
数年前に、アイヌの古老と話す機会があった。その頃私は、開拓時代の北海道について調べており、知人のつてをたどってその会食の機会を得た。
酒が入るにつれ、彼は饒舌になった。幼い頃受けたいわれなき差別や、迫害のありようを涙ながらに語った。私は無言で頷きながらお酌をし、その声に耳を傾けていた。
そのうち北方四島の話題に移り、そこで繰り広げられる漁や動植物の話になった。古老は酔いに鼻を赤らめながら、語尾を強めた。「国後には真っ白な羆がいるのさ、俺はお祖父さんにそう聞いたぜ」そのとき私の脳裏に、孤島に息をひそめる一頭の白羆が浮かび上がった。それは怒濤逆巻く北海の、人を寄せ付けぬ海沿いで餌を漁っている姿だった。その日以来、そいつはどんどん私を支配していった。荒れくるう牙、真っ赤な喉の奥、純白に波打つ毛皮、まがまがしい巨大な獣は私の中で神格化され、畏敬の念は日増しに強くなっていった。
私は決心した。この白羆を世に放つのは自分しかいない、やってやろうじゃねぇか、と。空想にしか過ぎなかった白羆は、私の休養時間を奪いにかかってきた。食事の時も入浴の時も片ときも頭から離れてくれない。さぁ書け、早く書け、俺様を世の中に送り出せ。その念はとうとう夢の中まであらわれて、安眠を吹き飛ばしにかかった。
私は、この白羆と運命を供にしようと誓った。こちらが倒れるのが先か、白羆が倒れるのが先か—。私は狩人になって、ペンという銃を手に奴を追いつめていった。老獪な白羆にどれだけ翻弄されたかわからない。時として裏をかかれ、餌食になりかけたときもあった。その度に危機を脱し、次第に距離を詰めていった。私の心にはある思いが固まっていた。その光る牙を仕留めること、偉大なる力に打ち勝つこと、それに全てを賭けた。
結果、私は白羆を仕留めることに成功し、今こうしてもうひとつのあとがきを記している。私は勝利し、その美酒にとことん酔った。しかしそれは大きな勘違いだった。仕留めたはずの白羆は、相変わらず毎晩やってくる。歯ぎしりをして、両手を拡げて私に挑んでくる。そう、出版と引き替えに、私の熟睡は奴に奪われてしまったのである。読者の皆様の睡眠が妨げられないことを、心から願うばかりだ。
吉村龍一
一九六七年、山形県生まれ。『焔火』で第六回小説現代長編新人賞受賞。二冊目の本書『光る牙』は大藪春彦賞候補となる。元自衛官、期待の大型新人作家