■私は「産まなかった」けれど
甘糟りり子
「結婚はしてもしなくてもどっちでもいいわよ。いくつになったって出来るんだし。とにかく、子供よ、子供。とりあえず産んでおきなさい。いいわよお〜、出産って。あの瞬間の感動はなにものにも替えがたいんだから。女に生まれたからには、絶対に味わうべきよ(以下、同じような内容が延々と続く)」
少し年上の女友達から、そんな話をされたのは一度ではない。適当なあいづちでやり過ごしていた私は、あの時四十をいくつか過ぎた頃だった。彼女としては、いい歳をしてふらふらしている私を思って、人生のアドバイスをしているつもりだったのかもしれない。
彼女と私のケースだけではなく、母となった人が、未経験者にタイムリミットが来ないうちになんとかした方がいいとプレッシャーをかけている場面を時々見かける。
ありがたいことではあるけれど、私はそれほど子供を産みたいとも思わずに、従って出産を経験しないまま五十を過ぎた。
そりゃあ、自分の分身が自分の身体の中から世の中にでてくるのだから、得がたい経験だろうし、その存在は愛おしいものに違いない。その後の子育ても、大変な分だけ充実した気持ちになることは想像できる。
しかし、と私は思う。
「なにものにも替えがたい瞬間」は、出産に限ったことではない。少なくとも、相対的なものではなく、自分の中の絶対的な物差しを持っていれば、人生の中で何度かはそういう瞬間に出くわすことがあるものだ。
出産はすばらしい。でも、それだけがすばらしいことではない。どれを選ぶか選ばないのかは、その人が自分の意思で決めていいのではないか。
『産む、産まない、産めない』が文庫になった平成二十九年の今でも、まだ、世の中の現状がそれを許していないように思える。
産む、か、産まない、か、もしくは(産みたくても)産めない、か。
女性は結局、このどれかの状況に当てはめられるしかない。いい方を変えれば、どれかの状況を受け入れるしかないのだろうか。受け入れて、なおかつ、自分の選択に自信を持って生きていきたいと思っている。
妊娠と出産をめぐる
「人生の選択」を描いた8つの物語
甘糟りり子
1964年、神奈川県生まれ。玉川大学文学部卒。女性誌などでエッセイや小説を執筆。『ミ・キュイ』(文藝春秋)、『エストロゲン』(小学館文庫)など著書多数