講談社文庫

□2015年9月号目次

大山淳子 書下ろしエッセイ

わたしの猫弁祭

 とても煙たかったんです。

 そこは池袋のとある喫茶店。わたしは非喫煙者なのに、なぜかその日、猫弁編集担当のKさんは喫煙席でわたしを待ち構えていました。

 最初は気付かなかったんです。座って挨拶して「煙い」と感じ、見回すと周囲は紫煙でいっぱい。わたしは遠慮深いので「なぜこの席なんですか」と言えないまま話が始まりました。

「大山さん、猫弁の完結編が書けたら、がっぽんを同時出版しませんか?」

「がっぽん?」

 意味がわからず、脳内で漢字変換できませんでした。猫弁シリーズは既に四巻まで刊行し、次で完結するという約束はしてありますが、まだ一行も書いていません。

「一巻から五巻までを全部収録して二段組みで厚い本でナンタラカンタラ……」

 Kさんはノートにイラストを描きながら説明します。このあたりで、がっぽん=合本と判明。視界は煙でもやもやしてるし、喉は痛いし、話はウマすぎる。Kさんは起きてる風に見えるけど、寝言を言ってるのかもしれない……ゲホゲホ。

 とにかく煙たかったんです。お気に入りのセーターが煙草臭くなるのが気になりました。でも遠慮深いわたしは「席を替わりたい」と言えずに、話を聞き続けました。猫弁全集。うれしい企画だということが、だんだんわかってきました。

 でも全集って「亡くなった文豪」というイメージです。わたしは生きてるし、そこまで売れてないし、完結もしてないのに全集?

 この話を信じて、あとから「そんなこと言いましたっけ?」と言われると悲しいので、Kさんのメモ描きイラストを「証拠として撮らせてください」と、携帯でパチリと写させてもらいました。遠慮深いどころか、疑り深いですよね。

 不安をよそに話はトントンと進み、猫弁第三巻の文庫版、猫弁完結編、猫弁全集、この三つの同時発売が決定しました。「猫弁祭」だそうです。

 さあいよいよ完結編を書き始めようとした矢先、嫁ぎ先の娘が倒れました。妊娠悪阻です。看病に通いながら創作をスタートすると、今度は高齢の父が意識不明となり、ICUに緊急入院。

 わたしは毎日ICUへ通い、でも娘のことも心配なので、わが家へ引き取ることにしました。こうすればどちらも介護できますからね。

 父は一命をとりとめましたが予断を許さない状態が続きます。娘はやせ細り、血を吐いてます。どちらも目が離せません。Kさんに状況を報告すると「原稿はいつでもいいです」とあたたかい言葉が返ってきました。

 ほっとすると同時に、胸に痛みを覚えました。猫弁祭を誰よりも楽しみにしていたのは自分だったのです。でも家族の命には替えられません。

 無心になり、目の前のことに全力を尽くそうと思いました。

 結果的に、同時発売は無理でしたが、同月発売は叶いました。

 完結編『猫弁と魔女裁判』は、全五作の中で最も短時間で書き上げました。一巻から四巻までを書く間にラストの構想は出来上がっていたし、法廷シーンを書くために一年前から裁判を傍聴して、仕組みや言葉遣い、雰囲気を学んでいたからです。

 わたしはいつもプロットを立てません。人物の履歴書も作らず、いきなり冒頭シーンを書き始め、その後はシーンとシーンをつなげるように物語を作ります。

 ラストまで書いてから「この小説を書く意味」を自分に問い直し、構成を大直しすることはありますが、今作はそういうプロセスもなく、ただまっすぐに筆が進んでゆきました。

「あんな時期に、いったいいつ書いたの?」と聞かれたことがありますが、そのあたり記憶がありません。

 病院と自宅の往復、その間に娘の看病、夜は疲れ果てて就寝。夜中に目が覚めると、「書けるだけ書こう」と、一〜二時間ほど創作していたように思います。「原稿はいつでもいい」と言われたのであせりはなく、猫弁祭はとっくにあきらめ、だから気負いもありませんでした。

 それでもひとつだけ、ある晩の出来事だけは、はっきりと覚えています。

 夜中の三時くらいでしょうか、書いていると、背中にふわっとあたたかさを感じたのです。振り返ると青白い顔の娘が立っていて、わたしに自分の防寒用パーカーを羽織らせてくれたのです。

 おそらく気分が悪くなってトイレに行こうとしたら、母親が仕事をしているのが見えたのでしょう。真冬にエアコンも点けず、パジャマ姿で創作しているのを見て、心配してくれたのでしょう。そう言えば、寒い夜でした。

「ありがとう。あたたかいね、これ」と言うと、娘は弱々しく微笑んで「これあげるから、がんばってね」と、わたしの背中に骨の浮いた手を当てました。

 わたしはそのパーカーのあたたかさを今も覚えています。

 おかげさまで全集発売前に父は退院、その後娘も回復し、無事出産しました。

『猫弁』はデビュー作です。

 単行本担当はKさん。驚くほど自由にやらせてくれて、お小言もちゃんとくれました。男性ですがおかあさんのような存在です。文庫担当はSさん。女性ですがおとうさんのような存在で、細かい事はおっしゃらず、わたしが弱気になると「だいじょうぶ!」と笑顔で励ましてくれました。Sさんは実は作品の中にいます。二見・沢村法律事務所の秘書S・Sです(初告白)。経歴は違うけど、働く女性の精神力やしなやかさを参考にさせていただきました。

 他社の編集者さんから「本の作りを見ればどれだけ愛情が注がれているかわかる。大切にされていますね」と言われたことがあります。

『猫弁』は両親に恵まれました。イラストレーターのカスヤナガトさんと北極まぐさんも作品を支えてくれた大切な存在です。読者のみなさんからも、いっぱい励ましをいただきました。「続編を」というお声もいただきますが、完結編が思いのほか「ちゃんと書けた」つまり「完結した」という手応えがわたしにはあるんです。

 ラストまで読んだ方がそれぞれに想像してくださる「猫弁のこれから」。それを越えるものがいつか書けるでしょうか?

 今回刊行されるのは猫弁のトリ、『猫弁と魔女裁判』の文庫版です。なんと巻末では、ドラマで主役の百瀬を演じてくださった吉岡秀隆さんと、ドラマの演出をしてくださった北川雅一さん、そして脚本を書いたわたしの鼎談という、夢のような企画が叶いました。

 思えば猫弁祭はデビューからずっと、今もわたしの中で続いているんです。

 お祭気分で最後に夢を語っちゃいます。

『猫弁』が『赤毛のアン』のように時代を超えて多くの人に愛されますように。

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