吉本隆明と猫、最後の日々のこと

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「戦後思想界の巨人」とよばれ、長年にわたって、
日本人の生き方にも影響を与え続けた吉本隆明。
そんな吉本さんが、老いと病に直面した
人生の最後に、何を語ったのか──。
最愛の猫・フランシス子について、そして自らの死について。
この本がつくられた時、
それにたずさわったのはたまたますべて女性だった。
〝世にも優しい本〟が生まれたのはどうしてだったのか?
当事者たちが、吉本さんの愛した谷中の『蟻や』で語り合った。
構成・文/瀧 晴巳 撮影/関 夏子

『フランシス子へ』

吉本隆明

講談社文庫

定価 : 本体530円(税別)

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生と死の狭間で語られた、吉本隆明、最後の“ことば”。

いいとこなんて特にない。平凡きわまるぼんやり猫の「フランシス子」。けれど、著者とは相思相愛だった。忘れがたき存在を亡くし、自らに訪れる死を予感しながらも、訥々と、詩うように語られた優しく輝く言葉たち。「戦後思想界の巨人」吉本隆明が、人生の最後に遺した、あまりにも愛おしい肉声の記録。

『なぜ、猫とつきあうのか』

吉本隆明

講談社学術文庫

定価:本体820円(税別)

2016年5月10日発売

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横の関係で住んでるみたいな、
そういうところがある。

幼いころから生活のなかに猫がいて、野良猫・飼い猫の区別もゆるく日々をともに過ごし、その生も死も幾多見つめてきた思想家は、この生きものに何を思ったのか。詩人の直観と、思想する眼差しと、ともに暮らすものへの愛情によって紡ぎ出されたことば。暮らしの伴侶を愛するすべてのひとへ。 (巻末エッセイ・吉本ばなな)

吉本隆明(よしもと・たかあき) 1924年東京・月島生まれ。詩人、文芸批評家、思想家。日本の戦後思想に大きな影響をあたえ、文学や芸術だけでなく、政治、経済、国家、宗教、家族、大衆文化に至るまでを論じ、「戦後思想界の巨人」と呼ばれた。2012年3月逝去。

『フランシス子へ』は、
吉本隆明が相思相愛の仲だった
愛猫フランシス子について語った一冊。
いいとこなんてまるでない、平凡極まりない猫なのに、
自分とはまるで「うつし」のようだった
唯一無二の存在を亡くし、とつとつと語られた言葉は、
いつしか「戦後思想界最大の巨人」と言われた
この人の神髄へと迫っていく。
吉本隆明が亡くなったのは2012年3月16日。
フランシス子が亡くなってから9ヵ月と1週間後のことだった。
最後の肉声を閉じ込めたこの本が文庫化されることになり、
長女の吉本多子さんを囲んで、
故人が愛した谷中の『蟻や』に集まることに。
奇しくもそれはちょうど命日の3月16日になり、
まるで故人のおはからいのようなめぐりあわせに
感激しながらの座談会となった。

座談会出席者

吉本多子(よしもと・さわこ)
吉本家の長女。漫画家のハルノ宵子。  妹は、作家の吉本ばなな。隆明氏との共著に『開店休業』。
内藤 礼(ないとう・れい)
美術家。『母型』(豊島美術館)、『このことを』(家プロジェクトきんざ、直島)などで知られる。吉本隆明氏を敬愛している。
瀧 晴巳(たき・はるみ)
フリーライター。吉本隆明著『15歳の寺後屋 ひとり』『フランシス子へ』で語りおろしの構成を手がける。インタビュー・書評を中心に執筆。
長岡
講談社幼児図書の編集者。『フランシス子へ』の単行本を企画。
斎藤
講談社文庫出版部の編集者。本作の文庫化を担当。

吉本家所縁(ゆかり)の谷中『蟻や』で思い出の味をいただく。

長岡 『蟻や』は、吉本さんが昔からお好きだったお店なんですか。

吉本 家族で昔からよく来てましたね。

 多子さんが、吉本さんと共著の『開店休業』(注1)で書かれていたのも『蟻や』ですか。谷中銀座の夕やけだんだん下の、今も営業しているカツ屋さんで、よく串カツを揚げてもらって帰ったっていう。

注1:2013年、幻冬舎文庫刊。「正月支度」から「最後の晩餐」まで、吉本さんが『dancyu』に連載した食エッセイを書籍化。多子さんによる書き下ろし追悼文も収録されている。

吉本さんの大好物、串カツ。結構なボリュームがある。

吉本 そうです。当時は谷中に住んでいて、このへんはお惣菜屋さんが多いところだし、揚げ物は持ち帰りで買うことが多かったんです。5歳くらいから来てると思いますよ。あそこのカウンターの椅子で揚がるのを待ってました。

 お店も当時のままですか。

吉本 だと思います。昭和30年代からやっているお店なので、店主の方は代替わりしてると思うけど。

吉本さんが長年にわたって通った店。

長岡 せっかくだから吉本家でよく注文していたものをいただきたいですね。

吉本 父は、お店で食べる時はロースカツ。

長岡 頼みましょう。あとは副菜でお好きだったのって……。

吉本 いや、揚げ物ひと筋で、ほかに食べたことない(笑)。

長岡 じゃあ揚げ揚げで(笑)。チキンカツ、一口カツ、串カツ、小柱のかき揚げ……。

蟻やのおかみさん みんな、揚げ物ですけど、よろしいんですか。

吉本 今日は父を偲ぶ会なので。

長岡 お店の方に心配されるほどの揚げ物づくし……。

吉本 父には「血糖値を下げるには、まず野菜から」みたいな発想はないですからね。お医者さんとも「うまくやってますから大丈夫」と何の根拠もない会話を(苦笑)。

長岡 嫌いなものはあったんですか。

吉本 魚卵とか粒々がダメでしたね。「俺は詩人だから、粒々はダメだ」って。

長岡 詩人だから(笑)。「詩人、思想家、批評家、何と呼ばれるのが一番しっくりきますか」とうかがった時も「詩人」とおっしゃっていました。

吉本 我が家で万能手伝い人をやってくれているガンちゃん(メトロファルスのベーシスト・光永巌)のために最後は詩を、歌詞を書きたいなと言ってましたね。よく鼻歌も歌ってました。最後の頃は唱歌を。『夏は来ぬ』とか。

 あ、ホトトギスの歌ですね。ホトトギスはいるかいないかを問い直すという話は『フランシス子へ』でうかがった中でも大切な瞬間として、すごく印象に残っています。

吉本 「何でも前提から疑え」ということですよね。結局はそれが父の思想の根底じゃないかと。もっと拡大していえば、原発は本当に爆発したのかとかね。テレビでそう言ってるけど、それは本当だと言えるのか。メディアや写真がそう言えば、お前は信じるのか。そうやってすべてに対して前提から疑って、自分で考えて、そこまでたどり着くという。それをやってきたから、父のすべての思想は強いのだと思います。

 本当に。そうでしたか、吉本さんはホトトギスの歌を鼻歌でよく歌ってらしたんですね。

吉本 そう。寝っころがって繰り返し歌いながら、何か考えているんでしょうね。こっちはうたた寝してると思うから「そんなところで寝ないでちゃんと寝なよ」と言うんだけど「いや、寝てるわけじゃないんだ。考えてるんだ」って言うの。

 考えて考えて考え続ける。吉本さんのお話の仕方がもう、そういう感じでした。

長岡 際限なく論が続いていく感じで、終わりがなかった。たぶん、ひとりでいる時も同じで、そうしているんでしょうね。

吉本 そうだと思います。

 「次回は武田泰淳(注2)の『富士』(注3)の話をしましょう」と約束したのが最後になりました。今でもふっと思うんです、吉本さんは何をお話しされるつもりだったんだろうと。

注2:1912年、東京生まれ。第一次戦後派の作家として活躍。主な作品に『司馬遷』、『蝮のすゑ』、『風媒花』、『ひかりごけ』、『富士』、『快楽』など。

注3:1971年、中央公論社刊。悠揚たる富士に見おろされた精神病院を題材に、人間の狂気と正常の謎にいどみ、深い人間哲学をくりひろげる。武田文学の最高傑作とも評される。

吉本 本当に惜しかったですね。誰も今までそういうのを引っ張り出した人はいないし、あのままきっと限りなく話が続いていっただろうと思うから。

長岡 聞きたかったです。

吉本 父が考えごとをしている時のお決まりのポーズというのがあって、肘掛けに手をついて、足をこう組んで……ときどき、私、まったく同じ格好をしてるのに気がついて、ドキッとします。

「ふと気付いたら父と同じポーズをとっていることも(笑)」(多子さん)

人として素の吉本隆明が言葉の中に息づいている。

 谷中にいた頃から、吉本家に猫はいたんですか。

吉本 物心ついた頃にはいましたね。妹(作家の吉本ばなな)ができるまで、私は6年間ひとりっ子だったわけで、猫が兄弟みたいな感じでした。最初に飼ったのは全虎の赤猫で名前は「オニーテ」。たぶん「お兄ちゃん」という意味で、そういうふうに呼んだんだと思うんです。

長岡 吉本さんにお話をうかがっている時も、何か視線を感じるなと思ったら、庭先から猫がじーっとのぞいてることがよくあって。猫にも人にも開かれた家ですよね。

 それこそ大学で教えてほしいという依頼も山ほどあったんじゃないですか。

吉本 それはありますよね。だけど、本人が大学の先生というのを基本的に信じてない。大学の先生こそが中学の先生と入れ替わってみるべきだという持論がありました。

長岡 『15歳の寺子屋 ひとり』(注4)は、そもそも「老賢人に話を聞きにいく」という企画でした。4人の15歳たちを連れてご自宅に通うようになったあの時も、正直なところ、子どもたちに場を作ると言いながら、私が吉本さんの塾に通っているような気持ちがありました。

 子どもたちとも真剣勝負で向き合ってくださって。吉本さんは少年時代に通った私塾を思い浮かべていたのではないかと。

注4:2010年、講談社刊。15歳の男女4人を相手に1年にわたって行われた、小さな寺子屋授業。進路、文学、恋愛……、考え抜かれた言葉の数々で、吉本氏が子どもたちに語りかける。

吉本 『15歳の寺子屋〜』の影響なのか、最後の最後になって「俺はここで塾を開きたいから、ポスター描いてくれ」って言ってましたよ。亡くなる前の年です。

長岡 えーっ。その塾、入りたかった!

吉本 父のイメージでは近所の子どもたちが勝手に入ってきて、お菓子食べてという感じだったと思うんだけど、もしやっていたら間違いなく子どもよりおじさんたちが来ちゃったでしょうね(笑)。

斎藤 瀧さんと多子さんとの交流も、その頃から始まったんですか。

 いえ、こんなにいろいろお話しするようになったのは、吉本さんが亡くなった後、多子さんがご自宅を改装して猫屋台を始めてからです。『フランシス子へ』の中で、私は吉本家の玄関は引き戸だと書いているのですが、実は当時は引き戸ではなくて、この時に「そう書いてあるんだから」と本当に引き戸にしてくださったんです。

吉本 改装した中で一番費用がかかったのが引き戸でした(笑)。

 本当に恐縮です(苦笑)。以来、会費制で多子さんの手料理をいただくようになり、相変わらず吉本家に通っているので、なおさら吉本さんの気配を近くに感じています。本づくりのため吉本家に通っていた頃は、多子さんとはそれほどお話ししたこともなく、ただいつもお茶を出してくださって、それが本当に毎回絶妙のタイミングで。

長岡 対話を途切れさせない塩梅といい、優しい気配をいつも感じていました。あの年齢で毎回4時間以上お話しされたのだから、準備も大変だったのではないですか。

暮れなずむ谷中銀座商店街。手前の階段が通称「夕やけだんだん」。

吉本 皆さんいらっしゃる直前まで寝てて、起こすのが私の役目でした。

 そういえば、いかにも寝起きという激しい髪型のことがよく(笑)。

長岡 袖口をひっぱりながら「舶来もののセーターはどうして袖が長いんでしょうね」と、困った顔でおっしゃっていたのも忘れられません。男性読者からは「吉本隆明をカワイイとは何事か」とお叱りを受けてしまいそうですが、何とも言えずチャーミングな男性でしたね。

斎藤 とつとつとした語りの中に思想界の巨人というイメージとはまた違う、人としての素の姿が垣間見えるところも『フランシス子へ』の魅力だと思います。文庫版では中沢新一さんに解説をお願いしたのですが『吉本隆明の中の「女性」と「動物」』という解説のタイトルといい、中沢さんには、この本のそうした魅力を翻訳してもらえたなと感じています。

内藤 私が吉本隆明という名前を最初に聞いたのは大学生の時でした。実際に読み始めたのは1990年代になってからで、最初に読んだのは宮沢賢治について書かれた『巡礼歌』だったでしょうか。この人は本当に思っていることしか口にしない。徹底して考える姿勢といい、教わったことはたくさんあって、私にとって吉本さんは「信じられる人」なんです。

吉本 内藤さんからは展覧会の図録に『フランシス子へ』の一節を引用したいと言われて。妹もよく直島(ベネッセアートサイト直島/香川県)に行ってるのですが、内藤さんの作品も沈黙の部分が大きい。根がすごく深いところが父と共通している。だから惹かれたんだと思いますよ。

内藤 私は目に見えるものをつくっているけど、昔から言葉に支えられてきたという感じがあって。自分というのは自分が出会った大切なもので出来上がっていると思っているので、吉本さんの言葉は今や私の中に沁み込んで同化して、もはや自分の言葉なのか吉本さんの言葉なのか区別がつかないほど。シモーヌ・ヴェイユ(注4)も宮沢賢治も、吉本さんを通して知っていったように思います。自分ひとりでは道がわからない場合でも、吉本さんを通してそういう人たちに近づいていくことができたと思っています。

注4:1909年、フランス・パリ生まれ。34歳で夭折した、女性哲学者。主な著書に『重力と恩寵』。

谷中銀座「夕やけだんだん」の猫。

吉本 男性の読者は読み解いて、論破してやろうみたいな傾向があるけど、女性の読者はまた違って、自分の身にできる感じがします。

内藤 残念ながら直接お目にかかる機会はなかったけれど、確かに自分の身になっていると思います。吉本さんの本を読むと、会ったこともないその人が自分に語りかけていると思う。言葉が強い。強いけど、優しい。「人間っていうのはかわいそうなもんですよ」(『15歳の寺子屋 ひとり』)という言葉も、すごく優しいですよね。

吉本 論争で意見が食い違ったりすると、男性は「叱られた」「嫌われた」と思って疎遠になったりすることがずいぶんありましたが、父は意見が食い違ったからと言って「嫌い」と思う人ではなかった。そもそも「嫌い」とか「悲しい」とか形容詞がつかない人でしたね。

長岡 吉本さんにお話をうかがううち、私も途中でそれに気づいてハッとしました。「悲しい」という形容詞でまとめてしまった途端に終わってしまう、それ以上考えなくなってしまうからなんでしょうね。

内藤 言い切らないことで中間があることがわかる。私も図録でその言葉を引用したんです。

 子どもって、そうですよね。この気持ちを「悲しい」と言っていいのか、それがわからないから、そのままをまず受け入れるしかなくて。そう腑分けすることで楽になれたりもするんだろうけど。

吉本 楽になろうとしないで考え続けた。生きてることが考えることだったから、息を吸うように考えていたんでしょうね。

長岡 ご家族にしたら、どうなんでしょう。

吉本 いや、面倒くさいですよ、そういう人が家にいるというのは(苦笑)。

長岡 『フランシス子へ』は吉本さんがホトトギスの声を聴くところで終わっていますが、良かったら、今日、みんなでその声を聴いてみませんか。

斎藤 その時の声を、今、ここで聴けるんですか?

長岡 はい。ここにお持ちしているんです。

美味しいカツに話もはずむ。(左から)吉本、瀧、長岡、内藤各氏。

 あの時は吉本さん、すごく喜んで。

長岡 気持ちの弾みが違いましたよね。「みんなを呼んで、みんなを呼んで」っておっしゃって、多子さんやガンちゃん、みんなでホトトギスの声を聴きました。

吉本 『フランシス子へ』は、あそこで終わるのが素晴らしかった。あの間が、あの頃の父の気配そのもので。

内藤 あの本を初めて読んだ時に、どう終わるのかなと思ったけれど、あそこでぱーっと光が差すのを感じました。

長岡 さあ、この声です。

 ああ、なんだか吉本さんがここにいらしているような気がします。