
江戸は浅草
知野 みさき雷門で掏摸に遇い路頭に迷っていた真一郎は、六軒長屋の大家・久兵衛に用心棒兼遣い走りとして拾われる。向かいは真夜中に面を打つ謎の美女・多香、隣は女のヒモで洒落者の笛師・大介。長屋で気ままに暮らす住人たちが、町の騒動に立ち向かう。江戸っ子の粋と人情、そして色恋も鮮やかな新シリーズが開幕!
購入する雷門で掏摸に遇い路頭に迷っていた真一郎は、六軒長屋の大家・久兵衛に用心棒兼遣い走りとして拾われる。向かいは真夜中に面を打つ謎の美女・多香、隣は女のヒモで洒落者の笛師・大介。長屋で気ままに暮らす住人たちが、町の騒動に立ち向かう。江戸っ子の粋と人情、そして色恋も鮮やかな新シリーズが開幕!
購入する1972年千葉県生まれ、ミネソタ大学卒業。現在はカナダBC洲在住、銀行の内部監査員を務める。2012年『鈴の神さま』でデビュー。同年『妖国の剣士』で第4回角川春樹小説賞受賞。『上絵師 律の似面絵帖 落ちぬ椿』を第一巻とする「上絵師 律」シリーズが人気を博す。他の作品に『しろとましろ 神田職人町縁はじめ』『山手線謎日和』『深川二幸堂菓子こよみ』などがある。
天下太平な御時世で需要の減った矢師を廃業し、さながら自分探しの旅に出ようとしていたところを「物好き」な両替商のご隠居・久兵衛に用心棒という名の雑用係として拾われた主人公の真一郎。
殺しの下手人を「探しておいで」と軽く命じられたことを筆頭に、四つの事件解決に奔走する姿が描かれていくのだが、読み進むごとに面白さがぐんぐん加速していく。
ひと癖もふた癖もあるが、それぞれに腕に覚えもある職人揃いの久兵衛長屋の住人たち。解決したと見せかけて待ち受ける二段、三段構えの真相。そこに秘められた人々の思い。
真一郎曰く〈なんだか楽しくて仕方ねぇ〉というこの浅草の町をもっと見たい! 久兵衛長屋のメンバーのこれまでとこれからをもっともっと知りたい! 心弾む魅力と魅惑がたっぷり詰まった物語である。文庫書き下ろし時代小説ブームのなかで、新たな人気シリーズ誕生の予感、感じます!
ふん、と女が鼻を鳴らした。
「とぼけた男だね」
呆れたというよりも、からかうように言って女は鉈と鑿を後ろにほうった。
ゆっくり外されていく面の下から笑みを湛えた唇が覗く。
灯りを背にした女の顔は陰っているが、切れ長の美女なのは見て取れた。
「お前のせいで気がそがれちまった。相応の償いをしてもらおうか」
「つ、償い?」
「ほんの気晴らしさ」
「気晴らし?」
阿呆のように繰り返す間に、女が自ら襟元をはだいて、両腕を真一郎の首に回す。
思ったよりずっと豊満な身体に抱きしめられて、真一郎は生唾を飲み込んだ。
気晴らしでもなんでも、これほどの女を抱く機会はそうあるものではない。
この際、何者だっていいさ。
たとえこいつが狐狸妖怪の類だとしても――
急ぎ女の背中に手を回し、真一郎は夢中になって帯を解き始めた。
「儂(わし)と源助が知る限り、浅草で二匹、上野、両国と、この一年にもう四匹も三毛猫が殺られているのだ。どれもそこそこ名のある者が飼っていた猫だぞ? おかしいと思わんか?」
「おかしいですな」
久兵衛の手前、頷いたものの、一年で四匹なら死に様によっては偶然のうちだ。
「次に狙われるのは、うちの桃かもしれん」
「なるほど」
「そこで真一郎、ここは一つ、おちびの下手人を探して来い」
「え?」
「桃に何かあってからでは遅いのだ。だからその前に下手人をとっ捕まえるのだ」
「俺が?」
「そうだ、お前がだ。無論お足は出すぞ。不満か?」
「いや……久兵衛さんのご命とあらば」
久兵衛に雇われている真一郎としては、引き受ける他ない。
相変わらず、つれねぇなぁ……
真一郎が内心ぼやいていると、ひょいと再び多香が表へ出て来る。
「ちょいとそこまで付き合いな」
「えっ?」
返事を待たずに歩き出した多香を、真一郎は慌てて追った。
木戸を出ると、多香は表通りを北へ向かった。
金龍山下瓦町を抜けた辺りで、浅草今戸町の久兵衛の別宅へ行くのかと思ったが、今戸橋を渡っても多香の足は緩まず、更に北へと進んで行く。
「お多香、ちょいと、ってぇのはいってぇどこまで――」
「もうすぐそこさ」
――今戸橋から四半里弱も歩いてようやくたどり着いたのは、銭座の北にある「おいて屋」という舟宿だ。
「二階、空いてるかい?」
多香が言うと、店の者は頷いて真一郎たちを二階へ案内した。
舟宿の二階には座敷や休息所が設けられていることが多いが、それぞれの部屋が引き戸できっちり仕切られているのは珍しい。おいて屋は吉原から東に一里ほどという場所柄、吉原通いの者の密談や社交の場として贔屓されているとみた。
通されたのは東側の―大川が見える部屋だった。
「大体、くだりもの、くだりものって、猫も杓子もうるせぇんだよ。江戸は公方さまのお膝元だぜ? 上方と張れる職人はわんさといるし、上方より旨いもんだってたんとあらぁな」
江戸生まれの江戸育ち、更に真一郎よりも六歳も若いとあって、大介のむくれようは真一郎の比ではない。
「大介、ちと声が高ぇよ……」
小声で真一郎がなだめたところへ、つぶやき声が聞こえた。
「豊田家が……」
低い声は紛れもない守蔵のもので、ぎょっとして真一郎たちは湯煙の中で顔を見合わせた。
「守蔵さん……そのぅ」
「久兵衛さんも悪気はねぇかと……その、大介が言うように新しい物好きが高じて、つい見栄を張っちまったんじゃねぇだろうか……?」