もうひとつのあとがき

■きらめくような夏の日
朽木 祥

 誰にでも忘れられない一日がある。日々の暮らしでは忘れているかもしれないが、心の底にひそやかに残っている、きらめくような一日。

 こんなことを言ったら、ヨット乗りの友人が、たちまち遠い日の少年の顔になった。仕事に疲れて見上げた先、ビル群に切り取られた空のかけらの向こうに「海が見える日がある」とうっとり言う。「見えたあとは、もう少し頑張れたりするんだ」

 実にその通りなのだ。自然の中で過ごした時間には何か特別な力があって、夢見るように思い浮かべただけでも、疲れた心を励ましてくれたりする。そんな時間に再び出会うために、海へ、あふれる光の中へ、駆けだしていきたくなるような物語を書きたいと、ずっと考えていた。

 この物語では、二人の少年と小さな少女、そして一匹の犬が小型ヨットで家出して、湘南江の島から三浦半島の小網代湾(作中では風色湾)に向かう。

 湘南の海は柏村勲画伯の装画そのままの輝かしさだし、小網代には奇跡のような自然が残っている。短い物語ではとうてい書き尽くせない素晴らしい場所だ。たどりついた小網代の海辺で、少年たちは「今日がずうーっと終わらなければいいのに」と願うほどの時間を過ごす。

 主人公の少年は、文字通り「得手に帆を揚げて」海に乗り出し、亡き祖父の言葉をあらためて心に刻む。自分は自分以外の人にはなれないし、風に「靴」を履かせて針路を決めるのは、自分自身なのだと。

 しかし、ささやかな冒険を終えて少年が戻っていく現実は失望の連続かもしれない。私たちを取り巻く世界は時に生きにくくて、一つ困難を乗り越えて眠っても、翌朝にはまた別の困難が待っていたりする。

 そんなとき、心の内に大切にしまった時間が、少年を―私たちを支えることがあるのではないかと思う。

 たとえば、滴る緑の中で目覚めた朝、眩い光のあふれる海で過ごした昼下がり、月の光の下、銀色に輝く波を見つめた夜。

 心にそっとしまって、缶に隠したおいしいお菓子のように、ふと取り出しては慰められ励まされるような、大切な記憶。

 この夏、『風の靴』を手にとって下さる皆さまが、そんなかけがえのない一日を思い起こして下さいますように!

少年たちは海に出た。
産経児童出版文化賞大賞受賞作

朽木 祥

広島市生まれ。上智大学大学院博士前期課程修了。デビュー以来、数々の児童文学賞を受賞し活躍。著書に『かはたれ』『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』など

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