もうひとつのあとがき

■パラドクスのふしぎ
周木律

 論理的には正しいけれど、直感的にはどうしても理解しがたい。そんな実例が、数学の世界にはいくつもある。

 例えば、先生に「抜き打ちテストを来週の月曜から金曜のどこかで一回やるぞ」と言われたとき、テストはいつ行われると推論できるか。まずテストを金曜に行うことはない、なぜなら月曜から木曜にテストが行われなければ金曜だとわかるので抜き打ちにできないからだ。木曜にも行うことはない。なぜなら月曜から水曜に行わないことで木曜か金曜のどちらかとわかるが、金曜に行うことはないので木曜だとわかってしまい抜き打ちにできないからだ。このように推論を続けていくと、水曜、火曜、月曜にも行えず、結局どの日にも抜き打ちテストを行えないことになってしまう。

 あるいは、「髪の毛が一本もない状態はハゲである」ことを起点として、「ハゲに一本髪の毛を増やしてもハゲのままである」という推論を繰り返し適用していくとどうなるか。このとき、「すべての人はハゲである」という結論を得てしまう。

 さらには、自然数と平方数(自然数を二乗したもの)の数を比べると、明らかに自然数のほうが多いように思えるが、これは本当だろうか。ある自然数を二乗すると、必ずある平方数となるのだから、その数は等しいことにはならないか。

 ―と、これらのようなものを、一般的には「矛盾」「パラドクス」などと呼んでいる。単なる言葉遊びのようなものもあるが、理屈と直感が乖離するせいで、妙に考えさせられるという点では同じである。

 拙作『伽藍堂の殺人』でも、副題にある「バナッハ―タルスキのパラドクス」を、この物語における象徴的なテーマとして取り入れた。どういったパラドクスか、その詳細は是非拙作をお読みいただければと思うが、簡単に言うと、「球を分割して組みあわせると、同じ大きさの二つの球になる」というものだ。ひとつがふたつに再構成できる。質量保存の法則にも明らかに反しており、直感に訴えるまでもなく間違っているのだが、しかし論理的には正しいという、何とも不思議なパラドクスである。

 ベースはミステリ、しかし数学のトリビアも楽しめる、それが「堂」シリーズのテーマだ。その面白さ、不思議さを、本書を通じて味わっていただければ幸いだ。

周木律

2013年シリーズ第1作『眼球堂の殺人 〜The Book〜』でメフィスト賞受賞。近刊に『CRISIS』(角川文庫)『幻屍症』(実業之日本社文庫)がある


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