もうひとつのあとがき

■奥駈の道へ
仁木英之

『まほろばの王たち』は「エソラ」という文芸誌に掲載され当初「役立ちの小角」というタイトルでした。役行者、役小角の名で知られる修験道の祖は、平安期の陰陽道で有名な賀茂氏に仕える立場であったと伝えられています。彼は深い山に魅せられ、何度も紀伊半島の大山塊に入っては修行を積みました。

 私はその大山塊と平野部の境目にあたる場所に住んでいます。山から遠くに暮らしていると、深い山谷と緑の中にも人が住んでいることを失念しがちです。しかし、近くに住んでみると、山の奥深くからも濃密な人の気配はするものです。

 この物語の重要な鍵を握る玉置山は、紀伊山地の深奥部に位置し、当時は分け入ることも難しい険阻な地です。にもかかわらず、神武天皇が東征の際に立ち寄ったという伝説や、第十代崇神天皇がわざわざここに足を運んで神社を創建したとの社伝が残っています。崇神帝は神武帝から欠史八代を経て、明確な史料が残る最初の天皇であり、説によっては神武帝と同一視されもします。つまり、大和の王権は当初から、この山に住まう者たちに相当の注意を払っていたのでしょう。私たちが異国に住む人々と習俗を異にするのと同じように、現代では考えられないほどに隔絶された山と里の人々の間には、大きな違いがあったはずです。親しく交わることもあれば、利害がぶつかることもあったに違いありません。

 この物語は、互いに遠い存在だった山と里が近づきつつある時代を描いています。遠かった存在が近くなり、互いに抱いていた敬意が容易に敵意に変わったりもする。人と人、国と国の距離が変わる時に誰がどう振る舞うのか。実に劇的であったことでしょう。中でも小角は当時でも数少ない、山と里双方に通じている人物であったと私は考えています。

 彼は大峯奥駈道を開いたとされます。奈良盆地の南端、紀伊山地の北端に位置する吉野山から、熊野三山、つまり太平洋に至る道です。那智勝浦の沖合には黒潮が流れており、大海原の遥か先に浮かぶ島々と繋がっているのです。王権が開いた諸街道と、小角が開いた里、山、海を繋ぐ道。大化の古代を彩った『道』を舞台に人と神と妖が乱舞する壮大なファンタジー、どうぞお楽しみください。

仁木英之

1973年大阪府生まれ。信州大学人文学部卒業。「僕僕先生」シリーズ、「千里伝」シリーズ、「五代史」シリーズ、「くるすの残光」シリーズなど著書多数


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