もうひとつのあとがき

■かつてそこにあったもの
ほしおさなえ

 新潟県の越後妻有地域で開催される「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ」という芸術祭に、家族で毎回足を運んでいる。里山のあちこちに設置された作品をめぐるのはおおらかで楽しい。

 なかに空き家や廃校を一棟まるごとアート作品にしたものもたくさんあって、とても魅力的だ。空き家や廃校は強い力を持っている。積み重なった時間が建物に宿っている。作家がその力を借りたり、その力と戦ったりしたのが伝わってくる。

 はじめてこの芸術祭を訪れたころ、写真をめぐる物語を書きたいと思っていた。だが、なかなか形にならなかった。それが越後妻有をめぐるうちに、空き家に残された写真にしようと思いつき、とたんに物語がするする動き出した。そして、なぜか父方の郷里・富山の海で見える海市(=蜃気楼)という言葉と結びつき、舞台は里山から離れ、空き家が立ち並ぶ海沿いの水上都市・海市という設定が生まれていた。

 写真ってなんだろう、とずっと不思議に思っていた。社会人になってから写真の学校に通い、自宅に暗室を作っていたこともある。現像中、暗闇のなかで印画紙に少しずつぼんやり現れる像を見ながら、これはなんだろう、と思っていた。photo=光の、graph=描くもの。写真とは、光が描いたもの。ある意味、蜃気楼と同じだ。

 光の跡。かつてあったものの名残。なにかがなくなっても、人はなかなかなくなったことを受け入れられない。だって心のなかにはありありと残っているのだから。あるはずなのに、ない。そのズレが幽霊を生む。写真は幽霊みたいなものなんじゃないか、と思う。人々がたくさん写真を撮るようになったから、幽霊が減ってしまったのかもしれない。

 人はその瞬間を刻みつけたいと願うから写真を撮る。この物語に登場する小学五年の少女・汀は、写真が撮られた瞬間の様子を再現する不思議な力を持っている。汀の力で、つかのま、過去の人々の願いがまぼろしのように今の人々の前に現れる。

 はじめて越後妻有を訪れたとき保育園児だった娘も、もうすぐ汀と同じ小学五年生になる。写真に写った幼い娘はもうどこにもいない。わたしたちはやがてみんな消える。小説を書くのも、自分が消えたあとになにかを残したいと願うからかもしれない。

建物に残された写真が呼び起こすのは、
大切な記憶―

ほしおさなえ

1964年東京都生まれ。2002年に『ヘビイチゴ・サナトリウム』(東京創元社)が第12回鮎川哲也賞最終候補となり、ミステリ・デビュー

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