『古事記異聞』「伊勢編・プロローグのプロローグ」
いよいよ新学期が始まる。
橘樹雅は、大学院1年生向けの説明会――オリエンテーリングが終わると、そのままC棟3階の民俗学研究室へと向かった。明日から毎日、ここに顔を出すことになる。
4月の爽やかな気候に、日枝山王大学名物の桜並木も花盛り。雅の心のように春爛漫だった。
ただ一つだけ気が重いのは、雅が最も慕っていた――というより、その教授のもとで学びたかった――水野史比古が、来年まで不在なこと。しかもその代わりに、雅が最も苦手な御子神伶二准教授が研究室を任され指導教官になっていること。その上、2番目に苦手な波木祥子が助教でいること。
それを考えると桜の花びらもくすんで見えてくるけれど、仕方ない。来年になれば、水野も戻るのだから。
真面目で誠実で几帳面で謙虚、しかも自由奔放で頭の切り替えも早い楽天家「乙女座・B型」の本領発揮だ。頑張らねば。
雅は足早に階段を登り、研究室の前で一度深呼吸するとニッコリと笑顔を作って、
「失礼します」
とノックしてドアを開いた。
すると、
〝最悪……〟
研究室には御子神1人。他の人間は誰もいなかった――。
しかし(たった今作ったばかりの笑顔を凍りつかせながら)雅は挨拶して、先ほど受けた説明会の報告をする。御子神は、目の前に置かれた厚い資料本に視線を落としたままで、その話を聞いているのかいないのか分からない。
「――ということでした」ひきつりながらの報告を終えたると雅は尋ねる。「それで……研究室の他の方たちは?」
「それぞれ、調べ物をしているんだろう」御子神は顔も上げずに答えた。「ちなみに、波木くんは花粉症が酷いので病院に行った」
「……そうですか」
「そういえば」と言って御子神は、ようやく雅を見るとニコリともせずに言った。「この間の、大和出雲の話はとても興味深かった」
「え……」
「ぼくも、今まで聞いたことも考えたこともなかった。あんな突拍子もないことを思いついたのはきみくらいだろうから、取りあえずレポートにまとめると良い。今のきみの実力では、きちんとした論文には仕上がらないだろうから」
「は……」
あの時、千鶴子は御子神が雅のことを「誉めた」と言っていたが、本当だったのだろうか? 千鶴子の勘違いだったのではないのか。
ふと視線を逸らせて御子神の机の上を見ると、学会案内の書類が載っていた。雅は、話題を変えるつもりでわざと尋ねる。
「学会があるんですね」
ああ、と御子神は再び雅から視線を外した。
「新年度早々だが、地方学会が開かれる。面白そうな発表もあるようなので、もちろん参加する。波木くんがあんな調子だから、ぼく一人で行くつもりでいる。今回は、参加するだけだから気楽な旅だ」
「ちなみに、どちらに?」
「来週の土日で、鳥羽市のホテルだ」
「三重県のですか!」
「他にどこか?」
「い、いえ……」
「せっかく鳥羽まで行くから、二見興玉神社にも足を運ぼうと思っている」
「猿田彦神ですね!」
「そうだ。彼はかなり誤解されているし、伊勢国にも大きく関わっている。きみも水野教授の講義を受けたはずだ」
「はい……」
と大きく頷いた雅の胸が、急に早鐘を打ち始めた。
千鶴子と「次は伊勢」と話をした。しかし千鶴子からの連絡では、急に仕事が立て込んできて一緒に伊勢に出かけるのは当分先になりそうだと言われてしまった。だから、仕方なく雅一人で足を運ぼうと考えていた。
その「伊勢」に来週末、御子神が行くとは。
〝どうする……〟
やはりここは、清水の舞台から飛び降りた気になって――。
「あ、あの、私もご一緒してよろしいでしょうか!」
「学会に」御子神は視線を上げて雅を見た。「きみが?」
「いいえ」
雅は大きく首を横に振った。もちろん興味はあるけれど、まだまだそんなレベルではない。
「実は近いうちに、伊勢に行くつもりだったんです」
雅は、先日の奈良で会った地元の老人から「伊勢を知らぬと、出雲の半分しか分からん」と言われた話などをする。それこそ千鶴子も同じようなことを言っていた、と。
「それは正しい」御子神が珍しく素直に首肯した。「ぼくも、そう考えている」
「なので、できれば二見興玉神社までご一緒させてもらって、色々と教えていただければと。もちろんその後は、私一人で伊勢をまわるつもりです」
言いながら、全身にじんわりと冷や汗が流れる。
でもここは、またとないチャンス。興玉神社で御子神の話を聞けるという機会を逃すのは、余りにもったいない。
ドキドキする鼓動を抑えながら俯いている雅を冷ややかに眺めて、御子神はあっさり、
「分かった。良いだろう」
と答えると、すぐに視線を外して手元の資料本を読み始めた。