一〇〇冊は通過点のひとつ

 デビューして十五年、一〇〇冊まで来ました。
 でも、実はその感慨はあんまりありません。
 というのは、いまも一〇一冊目のゲラでけっこう死にそうになっているところだから。ほかにもゲラが立て続けに来てしまっていて。そういう意味では、これからも感慨はずっとないのかもしれません。ひとつの通過点にすぎないですね。

 作家になろうという気持ちは、子どものころからずっとありました。
 ただ、そのためにどうしたらいいのかはわからなかった。作家のなりかたなんて、正しい方法はないでしょう? だからそのころしていたのは、ただ本を読むことだけ。
 よくわからないまま、とにかく書く仕事をしていれば作家になれるかな、ということで新聞記者になったわけです。新聞社に入って十五年くらいしてから作家としてデビューしたんですけど、いまだにその記者時代の癖がいろいろ抜けず、小説っぽい小説になかなかならないなと感じています。
 書く勉強って、実際にはなかなかできないものです。シナリオなんかは、スクールがありますし、専門学校もありそう。でも、小説の書き方そのものって、人からは学べない。結局読むしかないんです。読んで盗んで、自分のなかで咀嚼するだけ。書いて失敗して、怒られて、けちょんけちょんに言われて反省して、いまだに勉強中ですね。一生終わりそうにない。あと三十年もこんなことを続けるのかと思うとぞっとします。
 理想の文章があるとすれば、「水の如き空気の如き」文章かな。
 僕はエンタメの人間ですから、文章が大事なストーリーやキャラクターの動きを邪魔しちゃいけないと思っている。文章重視になってくると、そのあたりがどうしても疎外されてしまいます。物語を転がしていくことを、文章が邪魔してはいけないと思っている。
 水みたいに空気みたいに、さらっと流れるようなものがいちばん好きです。
 でもできているかといえばなかなかできない。だから勉強中というしかないんです。
 読む立場では、くどい文章が好きなんです。もってまわったような、ね。でも、自分で書くのは難しいし、意味があるとも思えない。だから、文に凝るよりは、ストーリーを練ったり、キャラクターを磨いたりすることにエネルギーを注いでいます。エンタメっていうのはそうあるべきだと思うので、さらっとした文になるようにつねに心がけているわけです。

 少年時代から目標にしている作家はいなかったし、今もいないし、これからもいないと思います。よくマイクル・コナリーを仮想敵とか言っていますけど、それはキャリアが似ているっていうだけのことで。しかも日本の作家は昔から読まない。
 はじめて買った文庫本がペリー・ローダンなので、やっぱり指向が子どものころから海外に向いていたんでしょうね。国内の作家じゃないとライバルとはいえないでしょう? 手本ともいえないし。だから、もともと自分は、ちょっとずれているんですよね。人とは少しずれているのが自分、というのが感覚的にあります。
 星新一なんかはよく読みました。少年時代はSFが好きでしたから。ミステリというものを意識して読み始めたのは、高校時代くらいかなあ。
 でも本格ではなくていきなりハードボイルドに行っちゃった。
 だいぶ大人びていたといえば聞こえはいいですが、変な高校生でした。自意識がかたまってくる時期にハードボイルドなんか読んでしまったために、ねじれた、変な大人になっちゃったわけです(笑)。

 ペンネームの由来は、大学の恩師のお名前です。
 そのころはまだ作家になるというよりも、まずはとにかく物書きとしてなんとか生きていこうかと思っていた時期でした。どうしましょうと先生に相談したら、じゃあ新聞記者になりなさい、毎日原稿が書けるからって。それにだまされた(笑)って、恩師にそんな失礼な。
 その先生が在学中に亡くなったので、恩返しの意味もあってペンネームにさせてもらったんです。難しい漢字じゃないんですけど、どちらかというと「珍苗字」にはいるんじゃないかな。印象的でおぼえやすい、いい苗字を使わせていただいていると感謝しています。


作家・堂場瞬一を定義すると

 思えば、僕が作家になった日って、いつなんだろう。
 いや、まだなってないかなと思います。最近気づいたんですけど、アマチュア感覚で小説を書いている気がします。あんまり商売を考えていない。自分の好きなように書いているから、アマチュア感覚が抜けていない。自分をプロの作家と言っていいのか、いまだに疑問なんです。
 アマとプロの差って、読者をどこまで意識するかにあると思います。
 作家って、そもそもインタラクティブ(双方向)な商売ではない。いまどきはインタラクティブに感想を聞くことができますけど、基本的にはこっちが投げて、読者がどう受け取ってくれるか手探りで一方通行でやっているわけですよね。そうしていると、読者がどういうものを望んでいるのかがだんだんわかってくる。慣れてくる。そこをもう一歩進んで騙すとか、そういうところで読者とのかけあいがあったりするんでしょうけど、そこはあんまり意識していない。
 好きなものしか書いていない。そういう意味でアマチュアっぽいんでしょうね。
 いまだにプロの作家と名乗っていいのかどうか……わからないんです。冊数じゃないだろうな、と。
 そりゃあ、プロとして仕事したものもありますよ。たとえば「アナザーフェイス」シリーズみたいに、完全に計算して作っている作品も。ああいうのは、自分ではプロっぽい仕事だなと思うけれど、それ以外ではあんまりないなあ。あきらかにアマチュアの書き方だなあっていつも思っている。
 一〇〇冊目の『Killers』もまちがいなく、そう。読者を意識して書く、というのとはいちばん遠い作品になりました。これを書いちゃったというのは、自分のアマチュア的なものの発露です。いいのか悪いのかわかりませんけど。
 読者に求められているものを書くのは大事だけれど、それよりも自分のなかにあるものをつきつめつつ書いている。そこがアマチュアっぽいと自分では思います。
 とはいえ、一〇〇冊も書いていて、アマチュアもないだろうって話になっちゃうんで、「堂場瞬一」は、「プロ部分とアマチュア部分が共存している作家」というような定義になるんでしょうね。

 スポーツ小説っていうジャンルは、日本にはありません。海外にもあんまりない。ノンフィクションはいっぱいありますが。小説として継続的に書いている人って多くはないはずです。
 そもそもスポーツ小説は、どうしても登場人物が若くなる傾向が強いですよね、中学生・高校生とか。でも、僕はそれはあんまり好きではなくて……果物はやっぱりくさりかけがいちばんおいしい(笑)。絶頂期とかそこを少し過ぎたあたりにいちばん味が出てくる、みたいなね。そういう持論があるので、スポーツ選手としては年齢が少し上の人を書くことが多いんですね。
 できることなら、ほんとうにトップにいる人だけを書きたい。でもこれはまさしく想像するしかない。トップにいる人って、自分を分析できていない人も多いんです。そんなことをする暇があったら、一生懸命に練習して、うまくなることのほうが大事ですからね。
 なので、小説の中でそれを分析してあげる。だけどそれは、一般の人にはなんの関係もないんです。なんの共感も得られない。すごいなとは思っても、それが自分の人生に役立つはずもない。そういうのを書きたいんです。「非共感の世界を描きたい」というのが、僕がスポーツ小説を書く狙いです。
 最近は、共感ばかりが言われているじゃないですか。世の中によくある感想のなかのひとつに「つまらなかった。共感できなかった」っていうのがある。でも、僕の感覚では、いかに共感できないかこそが小説のおもしろさだと思う。つまり、共感できないってことは、自分が知らないっていうことだから。自分が知らないこと、知らない人を知ることができるのが小説の醍醐味だと思うのです。
 ぜんぜん共感なんかしてもらわなくていい。そういう指向があるから、海外の作品が好きなんでしょうね。いまだとアーナルデュル・インドリダソンのアイスランドものとか。世界は狭くなっているといっても、まだまだ未知の国がある。ああ、こういう世界もあるんだ、こういう人もいるんだって知ることこそが、読書の楽しみですよね。
 そうした読書体験がダイレクトに濃厚に出ているのが、スポーツの世界なのではないかと思っているわけです、自己分析すれば。
 共感というのは、ものすごく狭いものから生まれますよね。「あ、それよくわかる」って日常の経験から生まれているっていうことですし。日常でできない異世界の経験も、読書でならできる。そこを狙っているわけです。だからこれからもなかなか普通の人が経験できないような、特殊な世界を書いていこうと思っています。
 共感というのは、読者が求めているもので、非共感は読者が求めていないもの、かな。アマチュア的な書き方を自分がしているというさっきの話にもつながるんですよね。
 でもそれが、作家としての僕の信念です。自分はいつも「自分が共感できない本を読みたい」と思っているから、それを書きたい、と。
 スポーツって、突き詰めていくと、けっきょく本人しかわからないっていうところになっていきます。読者にそれはぜんぜんわかりませんっていわれたら、むしろ「しめしめ」って思います。スポーツが人を駄目にすることもあるし、傷つけることもある。決して爽やかなことばかりではないですよね。でも、普通の人はそれがなかなかわからないし、求めてもいない。その「共感できなさ」を書きたいと。


九九冊目と一〇〇冊目

 これまで一〇〇冊書いてきて、百パーセント満足した本というのは、まったくありません。「次回に書く本が前の本をつねに凌駕する」っていつも言ってはいるんですけどね(笑)。「最高傑作は次回作」ってみんな言いますよね。
 それはともかく、ちょっと変わったことをやってみて、自分の幅を広げるのに役に立った本というのは何冊かあります。
 それは『解』であり、小説としての仕掛けという意味でもチャレンジングな『八月からの手紙』であり、『警察回りの夏』であり、『Killers』です。
 それらの作品では、読者が僕の名前を見て、期待するものは書いていないんです。
 だから必ずしも評判はよくないんだけれど、書いた方としては、意図があってそれに沿ってちゃんと書けました、っていう四冊です。
 考えてみると、どれも開放型、いわゆるオープンエンディングの作品ですね。
 日本では、オープンエンディングって嫌われるんですよね。扉を開けて「女か虎か」っていう「リドル・ストーリー」みたいなものは好まれない。ちゃんと結論書けよって、そういう感想はよく聞くんですよね。
 結論を読者にゆだねるのはもしかしたら卑怯なのかもしれないけど、僕は読者としては、最後に海がばーっと開けるような感じが好きなんです。なので、作家として転機になった作品は考えてみるとぜんぶオープンエンディングです。 『Killers』もそうです。読んでいただけるとわかると思いますが。でもあれは、あとからいろいろ言われそうだな……(笑)。
 作品によっては、結末はどうでもいい、ってなるものがあるんです。僕はそれでいいと思っているけれど、もしかしたら普通の読書好きな人とは感覚がずれているかもしれませんね。
 エンタメなんだから、きちっと閉じて、結論出してってやっぱり言われるし、それを好む人が多い。時代とのずれを感じることでもありますね。
 記者時代に書いていた記事は、出来事の最先端は追っていましたが、表現方法の最先端ではなかった。だけど、作家は表現方法もいろいろと変えていかなくてはならないし、そういう意味ではいろいろチャレンジしていきたいなとも思っています。ずっと同じでは面白くないですしね。
 だから僕は、ひとつのシリーズを持っていて、年に一冊書けば暮らしていける、というやり方はあまり好きではない。実際、それは難しいでしょうが。
 ある意味、気が多いんでしょうね。あちこち手を出したくなる。堅実に書いているシリーズもあります。冒険しているものもあります。で、それらはなぜかオープンエンディングで、読者の好みと乖離するっていう。最近、感想がダイレクトにわかるので、そのあたりは難しいなと感じています。これでいいのかなって悩むこともありますよ。

『Killers』と同じ日に発売される『邪心』は「犯罪被害者支援課」を舞台にした、女性がたくさん活躍するシリーズです。
 女性を書くのは難しいですね。昔から難しいし、今も難しいし、たぶんこれからもずっと難しい。でも、永遠の課題があるということだからそれでいいのかもしれません。これからチャレンジできるってことですからね。
 スポーツ小説では、僕は、まかりまちがっても、女性を主人公にしたものは書けないだろうなあ。ハードルが高すぎる。主人公をサポートする役に回すのも、浪花節っぽいし。
 でも、ハードルが高いからこそ、チャレンジのしがいもありますから、なんとか書いてみたいという気持ちはつねに持っています。
 そういえば、『チームⅡ』では、女性は見事に一人も出てこなかったなあ。
 たまに言われます、女性も出してくださいって。スポーツものにかぎらず。でも、それって微妙にかちんと来たりする。女性を、道具立てとして出しているわけじゃないんでね。
 しかし「支援課」は女性がいないと成立しない話です。
 犯罪被害者は女性が多いということもありますし、その場合、対応する側に男でも女でも両方いないとうまくいきませんしね。僕の中では異色のシリーズですけど、世の中の半分は女性ですから、必然的に女性が多くならざるを得ないという、ある意味リアルな世の中のことを伝えたい、という意図で書いています。社会的にも、二〇〇五年に犯罪被害者等基本法が施行されて以降、重要な問題でもありますから。

『Killers』の主要登場人物にはふたりの女性が登場します。地域の大物の妾と刑事です。立場も、時代も対比的な存在。「家」の存続の意味みたいなものを、女性を通じて象徴させたかったわけです。
 渋谷という街に潜む、殺人者の系譜を書いたんですが、どうか主人公と作者を「同一視」しないでいただきたい(笑)。だって、帯のコピーが「殺人者、覚醒」ですからね。
 なんでこんなの書いちゃったんだろうって思ったりもします。客観的に見ると、『Sの継承』の流れを利用して『歪』の拡大版を作ったことになるんですが、数年前からこういうのが書きたかったんでしょうね。自覚的ではないですが。
 たまたま一〇〇冊というタイミングにぶつかり、いくら書いてもいいって編集者に言われたから結実した作品なのでしょうが、自分でまだ、なぜこれを書いたのかが分析しきれていない。
 この世は「悪」でできているって、なんだかグノーシス派の主張みたいな小説になってしまっていますが……。
 一五〇〇枚分の暗い穴を掘っちゃったって気がしますね。近づくと落ちますよ、みたいなね。作品的には、都市小説とも読めるし、都市伝説の検証、政治家も含んだエスタブリッシュメントの没落もテーマだし、いろいろな読み方ができると思います。
 もうひとつ、これまで僕の作品はほとんどが犯罪者を追いかける側のことを書いてきていて、犯罪者そのものを書いたのは、『歪』一冊だけでした。しかも今回は言ってみれば殺人の動機がないんです。それは日本の読者がいちばん嫌う書き方でもあります。動機がないのではなく、倫理観がそもそも違う世界の話ですね。
 この世の最終的な基準は善ではなくて悪である、何故ならこの世は悪の神が作ったものだから、みたいなね。そこに、フィリップ・K・ディックに傾倒していた時代の僕が顔を出してくるわけです。
 ほかになにか言い方があるとすれば、堂場版『冷血』かな。
 先ほど、自分でも分析しきれていないと言ったとおり、まだあまりまとまっていませんが、これを書いたことで今後の小説の「元」みたいなものはたくさん見つかったし、読書体験がつまったという意味でも、メルクマール的な作品になっていると思います。
 一方で、支援課のような心優しい者たちのシリーズの『邪心』があるわけですから、お読みになる方は、「堂場瞬一ってどんな作家?」って迷うかもしれませんね(笑)。 『Killers』と『邪心』はほぼ同時進行で書いていましたが、僕自身、村野たちに助けられていた感がありました。
 支援課は、書いていてとても難しいシリーズです。
 事件が終わっても被害者である立場に終わりはないし、小説としての結末も苦いものになってしまいがちで、なにより気を付けないと書いていてワンパターンになってしまいます。でも、人間の持つ優しさと正面から向き合うことができますし、書いていてひじょうに癒されるシリーズです。作家をも癒す、まるでサプリのような、ね。
 これからもこのシリーズでは悲惨な事件が起こりますが、どこかにそれをなんとかしてやろうと思う人間たちがいる。だから変な話だけど、僕も癒されるんです。 『Killers』と『邪心』は期せずして表裏を成すことになりました。


作家としてのこだわり。矜持。そして次なる傑作へ

 もともと警察小説とスポーツ小説を両輪で書いていくことで、自分では精神のバランスをとっていたつもりでした。
 でも、ときにスポーツ小説でも、自分の精神の状態が悪くなることがある。
 人が生き死にする問題ではないんだけど、主人公をとことん追いこむから、書く自分も追いこまれていくんでしょうね。記録や勝ち負け、プライドなんかがかかっていたりして、主人公の心情をリアルに書こうとすればするほど、けっこう僕もしんどくなります。
 で、「アナザーフェイス」あたりがバランスをとってくれるっていうのが、自分でもおもしろいな、と感じています。
 いま書いていていちばん楽しいのは、「小説現代」で連載中のハワイを舞台にした「虹のふもと」です。『黄金の時』から考えていたことですが、大事なのは、物よりも人間関係だよなってね。
 しかし、たぶんまた揺り戻しが来そうな気がします。右左と揺れながらあちこちぶつかって前進していくんでしょうね。次はハードでリアルなスポーツものを書くことになると思います。
 ある作品と思いもよらない作品が対をなしていたり、というのも自分でおもしろい。四六時中書いていますから、そういうことになるようです。

 新聞社に勤めていた時と、作品に違いがあるのか、と聞かれることもありますが、自分では特にないつもりです。
 ただ、やめたことで時間に余裕が生まれて、「虹のふもと」のようなものも書けるようになったんだろうとは思います。会社員時代は、執筆取材で出張に行くために、有給をとっていましたから(笑)。そういう意味では、やめてよかったと思いますね。
 やめてそろそろ三年。長年の記者時代に叩き込まれた文章は、わかりやすさ優先でそれはそれでいいんですけど、色気がないんだよなあ。読んでくださる方は、「堂場節」がいいと言ってくださいますけどね。実際、章が変わるときによく出てくる捨て台詞なんかには、けっこうこだわりがあるんですよ。
 一〇〇冊プロジェクトのサイトに三百余りの「名言」を載せていますが、おもしろいと言ってくださる方も多いので、それはうれしいなと思っています。
 文章のくせで読者をはめるタイプでもないので、いつでもどこからでも読んでもらえますよっていう気持ちで、書いています。

 多作と言われることもありますが、うーん、どうだろう。
 月産一冊以上になると、ちょっとやりすぎかなって思うけど……。
 書き過ぎたことで作品が駄目になれば自分でわかりますし、そんなにひどくなってないしなあ。まあ、寡作ではないですってお答えするしかないんでしょうね。
 いずれにせよ、今と同じペースで書けなくなる日は必ず来るんだし、まだまだ書きたいことはたくさんありますから、今のうちに頑張っておきます。
 シリーズものは期待を裏切らないようにこのまま書いていきたいですし、それ以外にいかにも自分らしいネタを発掘していきたい。
 時代を遡ってみたり、まだ書いていないジャンルだったり、つねにネタは頭の中で転がしていますし、実は書いている時間よりもそのほうがずっと長いんですよ。
 そういう点では、現時点でゴールはまったく見えませんし、作品がひとつ終わると次の作品が浮かんでくるし、こんな感じでまだまだ書き続けていくことになりそうです。
 これまでたくさんの方が読んでくださった理由を考えてみると、シリーズを書くときにいろいろと考えている仕掛けが、ひとつ読んじゃうと次も読みたくなる、ということにつながるのかもしれません。ある作品の伏線が次の作品で回収されたり、はてはレーベルを超えてコラボをしてみたり。読み続けてもらえるように、ちょっとずつフックを考えているんです。そこは僕も、アマチュアと言いながらプロとしての矜持があります。
 みなさんにお楽しみを提供するという意識はいつも心がけています。どんどん読んでもらわないと、お楽しみがわからなくなりますからね。読んでくださる方が、そこらあたりで遊んでくださっている、というのが、ウケている理由なんでしょうか。

 いつか、全シリーズの全主人公を登場させる小説を書いてみたいと思っています。
 その場合、版元はどこになるのかな(笑)。大変だけど、できなくはないと思います。これまでもシリーズを跨いでキャラクターをカメオ出演させてきましたし、いま書いている他の作品にも、支援課がひょいっと出てきたりしていますから。
 二〇〇冊目? いやもっと早く書きたくなってきました。
 壁は低くないですが、これは挑戦する価値がありますね。
 数年後をとりあえず目指して、ちょっと練ってみようかな。

 こうやって、自分で自分の首をしめてしまうような企画を思いついちゃうのも、「堂場瞬一」という作家の一面です。
 作家という商売をしていていちばん面白いのは、自分の意図とまったく違うところで評価をされることです。合致したら面白くないかもしれない。他人の評価が、自分も知らない部分を引き出してくれたりする。作家の醍醐味です。
 だから、僕は、ズレを楽しむ、違和感を楽しむ、共感しないところを楽しむ。
 今後も、そういう作家であり続けたいと思っています。