もうひとつのあとがき

■ダメンズ人類愛、継続が命
田丸公美子

 友人米原万里にせっつかれて書いた家族秘話『シモネッタのどこまでいっても男と女』が文庫になった。残念なことに、彼女はこの本を読むこともなく世を去り、昨年没後十周年を迎えている。今回は万里の妹君、井上ユリさんが解説を書いてくれた。

 本書では、戦争や被爆で翻弄される母たちの人生をはじめ、今まで極力秘して来た夫との結婚生活も赤裸々に告白している。思えば、博徒の夫の夢に振り回された人生だった。男は不幸な女に惹かれ、女は夢を語る男に惹かれるというが、私が昔男にもてたのは、夫のせいで不幸な女になったからかもしれない。だとするとありがたい。

 今は夫が仕事を辞め、私を口説いて来る奇特な紳士もいなくなった。平穏な最低限の生活を保障してくれる年金は、阿修羅の博徒も罵倒観音も菩薩に変える。そんな中、時々チクチクと嫌みが言える相手がそばにいるのはなかなかいいものだ。だが、「離婚しなくてよかった〜」という思いは往々にして裏切られる。

 先日は夕食中夫が突然号泣を始め、私の度肝を抜いた。「私、何か傷つくこと言った?」。舌禍を招く私、一応確認する。さらに理由を問いただすと「君が死んだら、僕はどうすればいいんだろう」と嗚咽しながら言う。そういえば、四十年前も「死ぬと君と会えなくなる」と涙していた。だが、少なくともそのときは自分が先に死ぬ前提だった。なぜ今になって十五歳も年下の私を先に死なせるのか。なぜ夫の保険金もない妻の老後をまったく危惧せず、残された自分のことだけを心配するのか! 私は相変わらず能天気な夫に深いため息をつく。ふつふつと怒りもわいてくるが、ここは、底に流れる怒り(Anger)をひたすら抑え、我慢、忍耐、辛抱(Patience)と三つのPでやり過ごすしかない。これが私の〝PPAP〟、夫婦円満?の極意だ。

 幸い、怒りは「時間薬」で浄化される。夫の飽くことのない女癖でさんざん苦労した母も、父が老いて病むと、慈しみつつ手厚い看護をした。だが父の方は、母が入院したその日、車で川に飛び込もうとする不甲斐なさを見せた。「俺が妻の看病をしなくて誰がする」という気概のかけらもない。男はいくつになっても甘えん坊の子供なのだ。

 病や天敵による絶滅の危機を避けるには、個の多様性を増やすのが一番。そのため、男女は、自分とはできるだけ異なるDNAに惹かれるようインプットされているという。三年から七年後、恋愛フェロモンの魔法が切れて相手の実態が見えてくると、喧嘩になるのは必至、日本でも離婚はほぼ三組に一組という高率になっている。

 また福岡伸一先生によると、オスはメスの体を作りかえてできた不完全な生命体らしい。やっぱりね。男は、ひとつのことには優れた才能が発揮できるかもしれないけれど、生活と仕事を含めた総合力では女には劣る。

 そこで提案したいのが、男への幻想を一切断ち切り、ダメンズぶりを楽しむ余裕を持つこと。かわいそうな男たちを愛するのは寛容なる人類愛であり、子供を育てるのは社会事業、そう割り切る時代が来たのだ。

 今、夫は、城山三郎氏が先立った妻を悼んだ本、『そうか、もう君はいないのか』をもじり、文句を言い続ける私に「そうか、君はまだいたのか」とつぶやく。私の方は、夫の姿が見えないと脳溢血で倒れているのではないかと、家中の探索を始める。夜半彼のいびきが止まると、大声で生死を確認する。「まだ生きてる?」。これぞ、我慢の末添い遂げた夫婦だけが醸し出す、酸いも甘いもミックスした「加齢な」味わいだ。

 さまざまな夫婦像が息づく本書、読むと人には添うてみたくなり、添い遂げてみたくなる。結婚とは疾風怒濤の荒海に羅針盤も持たず船出するようなもの。そんな海で、愛が深い慈しみに変容するまで、右舵に我慢、左舵にユーモアで航海を続けて欲しい。きっと穏やかな地平が見えてくる。

田丸公美子

広島県出身。東京外国語大学イタリア語学科卒。イタリア語会議通訳にして、名エッセイスト。『シモネッタのドラゴン姥桜』『シモネッタのアマルコルド』など著書多数

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