もうひとつのあとがき

■酒にまつわる人々の心
千野 隆司

 江戸時代、灘や伏見といった上方から樽廻船によって運ばれる『下り酒』は、値も張りますが高品質で、江戸の吞兵衛の憧れの的でした。

 当時の関東の地廻り酒は、雑味の多いコクのない酒です。まさに『下らない酒』で、『下り酒』とは比べ物にならない味わいです。

 江戸の海に近い霊岸島の新川河岸には、そうした下り酒を仕入れる酒問屋がたくさん並んでいました。活気に溢れた町です。その中でも指折りの大店として本作の舞台となるのが、『武蔵屋』です。

 見た目は間口も広く、重厚な店構えです。しかし中身が倒産寸前だとは、町の人たちは誰も知りません。

 跡取りとなった長男は派手好き遊び好きでプライドが高く、傲慢です。分家した次男は、何かあると本家に頼ります。先代のおかみは、いらぬ見栄を張って商いを窮地に追い込みます。番頭は事なかれ主義で、責任を奉公人に押し付けました。

 満身創痍といっていい状況です。さしもの大店も、屋台骨が揺らぎました。

 主人公の卯吉は、店の三男ですが、妾腹なので疎まれています。正妻にしてみれば、夫に裏切られた、証のような存在です。腹立たしいのは当然ですが……。

 卯吉の父親は、商人としてまともな三男に、店のこれからを託して亡くなりました。

 江戸であろうと現代であろうと、ビジネスは過去の名声や実績に頼っているだけでは、生き残ることができません。新たな展開が必要です。

 卯吉は、義母や腹違いの兄たち、奉公人たちに疎まれながら、店を支え建て直していきます。四面楚歌でも、どこかに必ず活路は潜んでいると、卯吉は信じているのです。

 酒は一日の疲れを癒してくれます。百薬の長ともいいますが、これで身を亡ぼす人も少なくありません。喜びをさらに大きくしたり、悲しみを和らげてくれたりもします。また怒りを煽ることもあります。

 酒の周りには、時代を越えて、人々の喜怒哀楽がありました。

 酒を通して、主人公や登場人物の生きざまを通して、現代に通じる江戸庶民の心を描いていきたいと思っています。

千野 隆司

一九五一年東京都生まれ。時代小説のシリーズを多数手がける。「おれは一万石」「入り婿侍商い帖」「出世侍」「雇われ師範・豊之助」などの各シリーズが好評


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