もうひとつのあとがき

■すがるように書いたもの
長島有里枝

「有里枝ちゃん、文章書いてみれば?」

 写真家として、雑誌の取材で訪れた沖縄の飲み屋で、被写体だった角田光代さんがそんな風に言ったとき、それが酒の席にありがちな、単なる冗談かもしれないと思いもしないで、書きたいことがあるんです、とわたしは答えた。そうだよそうだよ、と角田さんは嬉しそうに言った。角田さんの担当編集者として旅に同行していた三枝亮介さんも本気で、東京に戻ると〆切が決まり、表題作の「背中の記憶」を書きはじめた。

 その頃のわたしは、私生活で複雑な局面に立たされていた。夫と本格的な別居が始まり、息子は三歳。まだまだ手がかかるのに、周囲からの援助が足りないと感じていた。毎日が時間との戦いで、ゆっくりものを眺める暇もない。カメラに触れない日が続き、かろうじて子供の写真を、押せば写るカメラで撮ってはいたが、安全面から公にすることは憚られた。いつお金になるかわからない作品制作は後回しにし、頼まれた仕事はなるべく受けたが、拘束時間が長いのが常である撮影の仕事で、受けられるものは限られた。

 女であるというだけで、こんなにも家から逃れられないものか、と思った。木村伊兵衛賞なんて貰っても、役に立たないのだとも思った。そんなものより、いますぐわたしを助けてくれるもの、たとえば明日の夜、息子を保育園まで迎えにいったり、明後日の朝食を作ってくれたり、夜中に子育ての愚痴を聞き、家のことにわたしと同じくらいの情熱と責任を感じます、そういう賞はないのかと、本気で思った。

 書くことは、わたしの望みの一端を叶えた。息子といると甦ってきた自分の幼少時代の記憶は、意外にも自分自身のことより、そばにいてくれた人たちのことで埋め尽くされていた。そこには大好きな女の人たちと、彼女たちをよく困らせていた男の人たちがいた。彼女たちには、当時の自分の苦しさやどうにもならない苛立ち、なぜ女だけ、自分を諦めなくてはいけないのかという怒りの気持ちを投影したと思う。書くことは、愚痴を聞いてもらうのとほとんど同じようで、また、自分は一人ではないと思うことでもあった。

 写真家なのに文章も書けるのね、と言ってくださる方もいたし、本業をちゃんとやれよ、と忠告してくださる方もいた。でも、わたしはただ生きていくうえで、そのときできる最善のこととして、この本を書いただけだったと思う。

第26回講談社エッセイ賞受賞作

背中の記憶
背中の記憶
定価:本体800円(税別)

長島有里枝

1973年東京都生まれ。写真家。93年アーバナート#2展パルコ賞を受賞。01年『PASTIME PARADISE』で、木村伊兵衛写真賞受賞。本書は初のエッセイ集。

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