もうひとつのあとがき

■聖杯を探求する物語
井上 真偽

 無意味である。不毛である。己に何の得もない、その価値を誰にも理解されない、それが出来たからといって何か人類に意義ある問題が解決するわけでもない、そもそも達成すること自体が不可能極まりない。

 それでも、挑戦せずにはいられない―。

 そんな不器用な男の生きざまに、みなさん興味はおありでしょうか。

 これは、そんな憐れな妄執に取り憑かれた一人の探偵の物語です。この話に登場する探偵、上苙丞は、常人離れした頭脳と恵まれた容姿を持ちながら、その全てをある一つのことに注ぎこみます。

 それはすなわち―「この世に『奇蹟』が存在すること」の証明。

 もちろんそこには彼なりの動機はあります。その背景は作中で語られますが、しかしそれとて同じく作中に出てくるワトソン役の金貸し中国人女性・フーリンから「マザコン」呼ばわりされてしまう程度のもの。およそ分別ある大人が、全てをなげうって取り組むほどの大義名分ではないのです。

 それでも彼は、突き進む―。

 立ち塞がる数多の「仮説」に対し、「その可能性はすでに考えた」と言い放って。

 作中、この探偵の不毛な行為は、とある登場人物により「聖杯の探求」に譬えられます。無論これはアーサー王伝説における、キリストの血を受けた「聖杯」を探す騎士たちの物語のことですが、しかしそれは些か持ち上げすぎな譬えと言えましょう。仮にこの探偵がその目的を遂げても、そこには騎士の栄誉もなければ、神からの特別な恩寵を得られるわけでもないのですから。

 しかし……その行為の結果、探偵は最終的に「誰か」を救います。本作の結末は、執筆当初は筆者も全く考えていなかったものでした。「この話をどうやって終わらせよう」と探偵共々悩み続ける中、物語の奥から滲み出るようにして湧いてきた答えでした。どんな無意味にも意味はある―この探偵は神の奇蹟を希求しつつ、実はそんな人間讃歌を奏でているのかもしれません。

 文庫化にあたっては、いかにこの探偵の行為がバカバカしいものであるかを示すため、冒頭に横溝正史作品からとある引用を追加しました。本書を読んで「ああ、人は無意味なことにここまで頑張れるんだ」と是非笑って頂き、明日を生きる活力にして頂ければ探偵・筆者共々本望です。

井上 真偽

神奈川県出身。『恋と禁忌の述語論理』で第51回メフィスト賞を受賞しデビュー。著書に『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』『探偵が早すぎる』など


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