もうひとつのあとがき

■のどぐろが生んだ本ミス一位
深水 黎一郎

 今からもう六年近く前のこと、H書房のI氏と新宿で吞んでいて、出て来た煮魚があまりにも旨かったので、いつか書きたいと思いながらも、実現はまず不可能と思って誰にも話したことのない作品のアイディアを、うっかり話してしまった。

 それはズバリ、無意味な描写の一切ない純度一〇〇%のミステリー、真実が常に《重ね合わされた》状態で存在し、剔抉されるということ自体が、真実の姿を刻一刻と変貌させていくような推理小説である。酔っぱらっていたので良く憶えていないのだが、量子コンピューターの開発に使われる《量子の重ね合わせ現象》が作品を支える基礎理論であること、必然的に十数個の解を持つ多重解決ものになることも話したと思う。

 即座にそれを書いて下さいと言われてしまい、その後も熱意のこもった鞭撻という名の檄を受け、30枚書いては20枚破棄し、20枚書いては30枚破棄しという塗炭の苦しみの日々がはじまったのだが、その甲斐あってか、こうして生まれた拙作『ミステリー・アリーナ』は、2015年度の本格ミステリベスト10の第一位を頂くことができた。

 その作品がこのたび、二つの出版社(少なっ!)による熾烈な争奪戦の末、講談社文庫入りするのだが、思うにあの日あの魚を食べなければ、「そんな推理小説、書けるわけがない」「どうせ中途で暗礁に乗り上げる」「書くのはまだ時期尚早」という内面の声に負けて、〈いつか書きたい作品リスト〉から永遠に出ることなく、結局書かずに(書けずに)終わってしまったかも知れない。これを書いている間は、他の仕事は全てストップして取り組まなければ、絶対に完成まで持って行けないという予感があり、そういう意味で、作家生命を賭けて書き出す必要があったのだ。

 従ってこの作品成立の蔭のMVPは、富山沖産の良く脂の乗ったのどぐろだと言えるかも知れない。

 講談社の媒体で、他社編集さんとの憶い出を語ってしまって恐縮だが、○蔵の肉や源○輪の中華がMVPとなる作品も、必ずや生まれる筈と思いますので!

深水 黎一郎

2007年に『ウルチモ・トルッコ』で第36回メフィスト賞を受賞し、デビュー。'11年に短篇「人間の尊厳と八〇〇メートル」で日本推理作家協会賞を受賞


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