もうひとつのあとがき

■歴史に「もし」があったら
西村 健

 歴史に「もし」はない、とよく言われる。それでも過去を深く調べていると、ふと「もし○○だったら」との思いにとらわれる瞬間が往々にしてある。

 我が故郷、福岡県大牟田市はかつて「日本最大」の規模を誇った、三池炭鉱を擁した。その近代化に尽力したのが團琢磨である。故郷の大恩人に他ならない。

 その彼を主人公に据えた、小説を書く機会に恵まれた。それがこの『光陰の刃』である。故郷の大恩人であるにも拘わらず、調べ始めてみるとあまりにも知らないことだらけであったことを、思い知らされた。

 團琢磨は福岡黒田藩の下級武士の子として生まれ、明治維新を迎えた。少年の時、岩倉使節団に同行してアメリカ留学し、鉱山学を学んだ。運命の様々な変遷で、三池炭鉱に深く関わることになった。

 当時の三池は豊富な石炭量は確認されていたものの、坑内の湧水が酷かった。そこで琢磨はイギリスから最新式のデーヴィー・ポンプを導入し、対処した。湧水問題は解決し、大牟田は日本最大の炭都へと歩み始めた。この実績を評価され、彼は三井財閥の頂点にまで上り詰める。だが日本の軍事化を懸念して来日した「リットン調査団」の接待役となり、日本の立場を説く日々の最中、テロリストの兇弾に倒れた。

 小説ではもう一人の主人公として、そのテロリスト集団を率いた井上日召の半生も描いた。なぜ彼らは琢磨を襲ったのか。日本の腐敗は特権階級に罪がある。よって彼らを排除し、新たな支配層を代わりに据え日本を蘇らせる。その第一段階としての、暗殺だったのである。琢磨は単に特権階級の象徴として、犠牲になっただけだった。

 今回、調べる中で興味深かったのは琢磨が一貫して、労働組合に反対していたことだった。資本対労働、という西洋的な対立概念は日本にはそぐわない。労使が友愛関係を以て話し合う、共愛組合とするべきだ、というのが揺るがぬ信念だった。

 だが彼は、志半ばで倒れてしまう。日本は戦争へと突き進み、戦後には大牟田で総資本対総労働と呼ばれた三池争議が巻き起こった。歴史の皮肉、以外の何物でもない。

 もし團琢磨がいなかったら大牟田はどうなっていたか。彼が兇弾に倒れなければ、日本は……。歴史に「もし」はない、と言われても思いを巡らせずにはいられない。

西村 健

福岡県大牟田市で育つ。東京大学工学部卒業後、労働省を経てデビュー。『地の底のヤマ』で吉川英治文学新人賞を、『ヤマの疾風』で大藪春彦賞を受賞する


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